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オートバイの旅日誌(35)Cameroon [5-アフリカ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(35)Cameroon-1977/09/09


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1977/09/09         マラリア
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 泥まみれになって到着したドゥアラでは、フランス人家庭に招かれ、4日間休養させてもらった。毎晩パーティーのような贅沢な食事で「フランス料理」そのものだった。昼はだらだらと過ごして、夜になるとワインとビール攻めで、悪路の疲れもすっかり取れた。
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 ヤマハで簡単な整備をした後、シェル石油から60リットルの援助を受け、中央アフリカへ出発した。
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 出発して間もなく、頭痛がしたが、酒の飲みすぎだろうと思って前進した。しかし、それがひどくなり、雨が降り始めたので教会の裏でキャンプした。神父がやってきて、すぐに家に来いと言われて、そのまま1週間厄介になった。頭痛は収まらず、そのうえ神父がくれた薬の飲みすぎで、全身に赤い発疹が出た。病院へ連れていかれたところ、ドクターが3人集まり、天然痘ではないかと脅かされた。その疑いが晴れてからも頭痛が続き、更に1週間寝込んでしまった。(今、思うとマラリアのようです。神父はマラリアの特効薬キニーネをくれました。)
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 毎日降り続く雨で、ヤウンデまでの道は非常に悪くなっているようだった。出発の時、神父はトラックに積んでいけという。別に泥道を恐れはしないが、ディスクパッドの消耗が激しい。スペアパッドも残り1組になっていた。十分すぎるぐらいにもってきたと思ったのに足りない。
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 泥道はさらに中央アフリカ、ザイール、ウガンダに入るまで続くのだ。アフリカではパーツは手に入らない。また、今から日本へ注文しても郵便事情を考えると間に合わない。いろいろ考えたが、やはりやれるところまで独力で前進することにした。
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 ヤウンデまでの道は、人がいうほど悪くはなかったが、1度転倒して、風防、ウインカー、サイドミラーを破損した。
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 首都ヤウンデから先は、しだいにジャングル地帯から離れていき、樹木も少なくなった。バナナの木もなくなった。サバンナ地帯に変わってきたようだった。(雨も降らなくなったが、雨季は終わったのだろうか。いや早すぎる。)
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 路面が乾いてきたので、思ったより早く中央アフリカ国境まで近づくことができた。


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1977/09/27   小川
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 同じカメルーンでも南部のジャングル地帯と北部のサバンナ地帯では、かなり文化が違う。食べ物も住居も違ってきた。もうバナナはなくなり、その代わりオレンジの樹木がいっぱいだ。
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 中央アフリカの国境事務所からは道が極端に悪くなった。途中、ゲートがあって、そこの男がフランス語で何か言った。話の感じから、この先で何かがあって、通行禁止になっているらしい。しかし、言葉がさっぱり分からないような素振りをしたら、行って良いとゲートを開けてくれた。道はさらに悪くなり、深い溝が縦に切れている。その先の橋は、半分壊れて工事中だった。通してもらう。
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 道は、ますますひどくなり、雨でも降っていたら、とても通行できなかっただろう。いたるところで、道は深くえぐれていた。そういうところは坂の途中に多く、エンジンを止めたら、もう発進はできない。必死になって、エンジンを回した。
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 国境からしばらく行くと出入国事務所があり、パスポートに入国スタンプを押してもらう。そこから先の橋はほとんど落ちていた。一時的な木の橋があったりするが、車の車輪の幅に大きな丸太が2本渡してあるだけだ。これだけは私も怖くて、村の子供にバイクの後ろを支えてもらって小川を越えた。雨が降る前にできるだけ距離を稼いでおきたくて、疲れても走り続けた。
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 夕方、小さな部落の広場にテントを張る。村人は椅子を出してくれた。そしてバナナを持ってきた。暗くなるまで椅子に腰かけていたら、テントの前に人が、無言で鍋を差し出した。鍋の中は、小麦粉を練ったものと肉が一切れ入っていた。主人は私を客として迎え、最初に食べるようにと勧めてくれたのだ。私が食べた後、主人が食べ、続いて子供が食べ、そして奥さんが食べた。
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1977/09/28   ガソリンを手に入れた
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 5時半に起床。すでに明るい。手の痒みが取れないので、抗生物質の薬とビタミン剤を飲む。
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 出発して1時間半後に小さな村に到着。この村は巨岩の間にあり、草を調和して非常にきれいなところだった。飛行場もある村なのに、ガソリンは品切れだった。残りの予備ガソリンで230キロ先の町まで行けるかどうかわからないが、この小さな村で、いつ来るかわからないガソリンを待っているよりは良いだろうと、とにかく出発した。市場でパン、バナナ、トマト、それからフランス人が経営する雑貨店でオイルサーディンとジュースを買って、首都バンギへ向かう。
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 道は少し広くなり、路面の状態も少しは良くなった。しかし、雨水に流されて堆積した砂が多くて苦労する。バオロに到着。そこから先は、雨が激しかったようで、路面がぬれていた。
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 大きな水たまりがあった。いつもと同じ調子で真中を通る。一番深いところが、もっとも底が安定しているのだ。しかし、この時は水底に大きな岩のようなものがあり、乗り上げてしまった。スピードが遅かったのでバランスを失て、背中から水中に投げ飛ばされてしまった。こんなところを人に見つかったらみっともないと思い、あわててバイクを起こしにかかる。疲れていたので力が入らない。少し引き上げては、力尽きて、また水の中に落ちてしまう。ガソリンが水面に流れ出した。死にもの狂いで、バイクを起こす。
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 一難去ってまた一難、更に大きな水たまりがあった。10メートル以上もある。あまり深そうには見えなかったのだが、ステップが沈むくらいあった。ギアが高かったので、エンジンが止まってしまった。慌ててエンジンを掛けなおし、一気にふかして抜け出した。
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 その日も村でキャンプした。バイクの整備をする元気がなくて寝てしまう。そして次の日、74キロ先の村でガソリンを手に入れた。(アフリカの旅では、予備タンク20リットルでも不足だと思った。)

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オートバイの旅日誌(36)Central africa [5-アフリカ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(36)Central africa-1977/09/29


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1977/09/29   バンギへ引き返す
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 首都バンギまで200キロの地点に来ると道は2車線になった。あまり疲れずに走れるが、休憩の回数を多くして疲れないように進む。雨の時は、やはり非常な悪路になるらしく、泥に埋まったトラックが放置されている。雨が終わった後は、泥が乾き、逆にタイヤを締め付けて動けないようだ。


 1時頃、ボセンベレに到着。明日の朝、バンギに入るため、この日は4時ごろまで進むことにした。3時ごろ、バンギまで70キロの地点でバイクが急にフラフラする。パンクだ。この旅に出て、2回目のパンクだ。すぐ近くに民家があったので、庭先でパンク修理をする。大きな錆びた釘が刺さっていた。


 その作業中、車イスに乗った青年がやってきた。パンクを直してくれという。2本のチューブをつなぎ合わせた代物で、パッチを何枚張っても直らないと思ったが、その足の不自由な青年を納得させるには、とにかく張ってみるしかなかった。ところが、それが直ったのである。青年は非常に喜んで、3キロ先の村へ帰っていった。
 
 次の日も市内の手前でパンクした。首都バンギでは、アメリカの海外青年協力隊のアパートに泊まって、これから先の旅の準備をした。アメリカの青年たちは、中央アフリカに井戸を普及させる仕事の準備中だった。


 3日ほど滞在して、中央アフリカの東部の町バンガスへ向かう。そこからザイールへ入国するつもりだ。まさかガソリンが地方にはまたくないとは予想していなかったが、いちおう予備ガソリンンを20リットル積んでいったので700キロ先までは無給油で達した。途中、綿花集積場で8リットルほど分けてもらい、バンガスの町の着いた。しかし、町には一滴のガソリンもなかった。


 首都バンガスへ帰るにも40リットルのガソリンを手に入れる必要があるし、また、川に向こう側のザイールへ入国するにしても、以前からガソリンが不足していることを聞いているので、とても川を渡る気にはなれない。ただ、待つしかない。


 3日間が過ぎた。銀行もないし、残りの金も少ないので、市場で揚げ物などを買って食いつないだ。昼間は日陰を求めて、広場周辺をうろうろした。本がないので旅行ガイドブックを全部読んだ。ガソリンを保存していそうな綿花集積場や教会を訪ねたり、バンギへ引き返すトラックを探したが、まったくだめだ。


 ポリスが、バンギへ引き返すトラックを見つけてくれて交渉してくれた。運転手はバイクを積んで行くのを嫌がたが、ポリスに弱みがあるのか、しぶしぶOKした。


 800キロの道のりをトラックは1週間以上もかかってバンギに到着した。連日の雨で道がぬかるんでいたからだ。バンギでチャドのビザの取得やバイクの整備をする。ガソリンは20リットルの予備では不足なので、5リットルの缶を2つ買った。チャドのビザは、トランジットと入国ビザしかなく、4500フランを請求されたときは、信じられなかった。(約9万円)


 バッテリーが異常になっていたが、ボルテージレギュレータの交換で直った。バンギのアメリカ青年たちのアパートで1週間滞在しているうちに雨季が終わった。
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1977/10/26   ブルタコ250
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 快晴だ。ガソリン43リットルを積んでチャドへ向かう。晴れると、今度は砂の路面が白く反射して、道路の穴がよく見えない。穴に落ちてたびたび転倒した。リムは凸凹に歪んでしまった。


 昼頃、前方からやってくるバイクを見つけた。ドイツからサハラ砂漠を超えてきた青年だった。同じバイク旅行者仲間として、この出会いは本当に嬉しかった。これからケニヤまで行くらしいので、この国のガソリン事情を教えたが、教会で分けてくれるだろうと、まったく心配していない。彼のバイクはブルタコ250だ。彼はサハラを超えて男になったという感じであった。


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オートバイの旅日誌(37)Chad [5-アフリカ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(37)Chad-1977/10/28


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1977/10/28   カナダ人のおばさん
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 チャド国境の町には、ガソリンスタンドが4軒あったが、ガソリンはなかった。青空市場にはビール瓶にガソリンを詰めて売っていた。10本買ったところ、1リットル150フランと高かった。そこで揚げパンとピーナツ、串焼き肉を買う。
  この国に入ってからは、牛馬が多く見られるようになった。コースを間違え、遠回りしていることに気が付き、進む気をなくして、教会でキャンプさせてもらう。この一帯はカトリック布教のため、多くのフランス人が住んでいる。その教会には7人の神父がいて、日本へも2度も行ったという人もいた。彼らの夕食の席に誘われ、そこでとんでもないことを聞いた。
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 この南部から首都ジャメナヘ行く道は通行不可能だという。チャド国内には、2本の幹線があるが、どれも通行止めらしい。雨季は終わっているのだが、その地帯は湿地帯なので、今年いっぱい無理のようだった。南部からジャメナヘは、カメルーンを経由していくのがよいらしく、輸送トラックはすべてそのコースを利用していた。
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 2泊して、今後のコースを考える。東アフリカへ行くことを中止したために、時間が余ってしまったのだ。つまりこのままサハラを超えてしまうとヨーロッパは冬の真っ最中で、とても旅行などできない。春ごろにヨーロッパに着く必要があった。予定変更してあちこちうろうろしなければならない。
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 カメルーンへ向かう道は今までと違て幅広く、少し退屈するぐらいだった。景色も変わった。樹木が非常に少なくなり、草が多くなった。民家の造りも変わった。屋根に使う草の種類が変わったらしい。屋根の勾配がきつくなり、草の厚さが非常に薄くなっている。そして、中央アフリカに比べると、屋根そのものが高くなったかわりに、土間の面積が小さくなった。そして民家の位置は道路から離れ、数が多い。
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 中央アフリカのような大きな集落はなくなり、家はあちこちに点在している。各農家は円形の庭を持ち、そこに大きな徳利型の食料倉庫が置いてある。これは家と同じように土壁でできている。
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 カメルーン国境の町で教会に滞在したとき、神父がライ病患者の村へ行こうと誘てくれた。それは町のはずれにあって、病棟らしきものはなかった。たった一人で治療に当たっているカナダ人のおばさんが嬉しそうに家から飛び出してきた。長い間英語を使っていないから言葉が出ないというが、私にわかるように大きな声で話してくれた。もう45歳ぐらいだろうか。・・・
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 彼女の家の横に小さな治療室があり、その前の広場を取り囲むようにしてレンガ造りの家がいくつもあった。それぞれにライ病患者の一家が住んでいる。それぞれの家の裏には畑があり、自給自足の生活をしている。だから普通の村と少しも変わらなかった。どこにライ病の人がいるのかと思うぐらいだ。私はてっきり部屋に閉じ込められていると思っていたのだが、実はそうではなかった。
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 神父は、一人一人に握手をして歩いた。みんな手で触れてくれるのが非常に嬉しいようだった。
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 カナダ人のおばさんは、「あなたのように大きな旅はできないけど、私はここで働けるのが楽しいのよ」という言葉を聞いて、胸がジーンとなった。


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オートバイの旅日誌(38)Cameroon [5-アフリカ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(38)Cameroon-1977/11/03


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1977/11/03   十字架
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 カメルーン北部の山岳地帯に入る。道路は2車線のアスファルト舗装になった。久しぶりにエンジンは5000回転を超えた。石がゴロゴロした山が左右に見える。ジャングルや草原ばかり見てきた私には、この山岳地帯が非常に美しく見えた。川筋にある落葉樹は葉を黄色に変え、散り始めていた。雨季の終わった川は涸れて、砂ばかりの川底を見せている。大きな川もほんの少しの水を残しているだけだ。間もなく本当の乾季が近づいているのを感じる。
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 ナイジェリアの国境に沿って連なる山岳地帯をモコロへ向かう。山道が続き、急傾斜の所もある。大きな石がゴロゴロしたところに風変わりな民家があった。草屋根だけど、その先が鋭くとがっている。そのとがった穂先は、いろいろな方向に向いていて何かを意味しているようだ。
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 この部落は非常に閉鎖的だった。だいぶ離れた家の写真を撮っていても、女が血相を変えて石を握って走ってくる。
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 ルムスキの奇岩の前で一服して、気分は最高だったが、パンクしてしまった。荷物を全部おろして、パンク修理。一番嫌な時だ。
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 ガウンドレの町の教会でキャンプさせてもらったとき、山奥の村で活動している神父に会い、2週間ぐらい、山奥で過ごしてみないかと誘われた。
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 バイクと荷物を町の教会に預け、小型トラックで山奥へ向かう。場所はナイジェリア国境に近いファロ自然公園のそばだ。ティクネレまでは普通の土道だが、その後は恐ろしいような道になる。雨季にはとても走れそうにない。大きな川には橋があったが、小さな川は川底まで降りて、反対の川岸を這い上がる。勾配は急だ。バイクではとても行けそうにない道だ。最後の川底でトラックは動けなくなった。
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 夜11時、中継基地の教会に到着。しかし、そこは神父の教会ではなく、明日、別のトラックに乗り換えて、更に奥地へ入るのだ。
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 神父はドイツ人で、名をコスモスという。私がつけたあだ名はゴルゴ13である。よく似ているのだ。コスモス神父は夕食のとき、君はこれから2週間アフリカ料理だけで過ごさなくてはならないと脅かした。しかし、夕食に出されたものは、目玉焼き、何かのフライ、サラミソーセージ、パンでほっとした。
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 翌朝、乗り込んだ車は4輪駆動車で、タイヤは農耕トラックター用だ。沼地でも川でもどこでも走れそうな車だ。その4000ccの戦車のような車は、トラックより乗り心地が悪かった。しばらく行くと大きなファロ川にぶつかった。まだ、雨季が終わったばかりで水量が多い。コスモス神父は慎重に岸から車を川に中に落とした。川底に大きな石があり、車は横滑りしながら進む。対岸は急斜面の砂地で、神父はその手前で車を停め、デフをロックして、一気に登った。私は楽しくて仕方がない。しかし、危険なので、このときだけは話しかけなかった。
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 もうこれは道ではなかった。でも、このルートも川に水がなくなると、ナイジェリアから密輸品を積んだ小型トラックが通るという。
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 自然公園に近いから動物も多い。神父があそこを見ろ、と動物の名をあげるが相手は素早い、私には見つけることができなかった。一度だけ、ヒヒが農家から飛び出してくるのを見た。ものすごい面相の奴だった。
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 神父の教会のある村で、私は2週間過ごすことになった。別に仕事はない。2日もすると退屈になってきたので、自分の部屋や便所の掃除をする。小学校へも遊びに行った。まだ、退屈なので、教会の看板を作ったり、教会の庭を造るために、手製の測量機器を作って測量をしたりした。
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 針金でペンダントを作っていると、神父から教会に置く十字架を作ってくれと頼まれた。この時ばかりは私も考えた。何しろ私はキリスト教も何も知らない。いくら山奥の教会だといっても、そこに安置される十字架となると、ペンダントを作るような訳にはいかない。2日ほど十字架というものを考えた。そして考えた挙句に、十字架から安らぎを感じられるもの、仏像のような表情のある十字架を作ることにした。
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 材料が問題だ。権力の象徴のようになってはいけない。キリストの身体を表すものだから、いっさい定規は使わなかった。釘も使わなかった。半分ほどできあがたところで、神父からどうしてそんなに左右の長さが違うのかと聞かれた。測ってみたら5センチ以上も違う。そこで制作理念を説明したら、彼も納得してくれた。
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 しかし、この仕事はなかなか進まず、ビザの期限が終わりに近づいていたので、それを残したまま、ナイジェリアへ向かうことになった。ビザを取り直して、すぐ戻ってくるつもりであったが、ナイジェリアではカメルーンのビザは取得できなかった。十字架を完成させることができなかった。(まだ、あの作業場の棚の上にあるのだろうか・・・・・)


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