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オートバイの旅(57)Australia [8-オーストラリア]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(57)Australia-1979/06/18


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1979/06/18   カンガルーの死体
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 パースに到着。真冬だし雨の多い時期のはずだけど、良い天気で、寒くはなかった。簡単に上陸手続きがすんだ。しかし、バイクの受け取りは大変だった。船会社、港湾事務所、倉庫と回り、やっとバイクを受け取ったものの、検疫所の前庭で泥除けの裏側まで水洗いをさせられた。
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 上陸してしばらくすると、気分が悪くなってきた。建物の床が揺れるのだ。1週間の船旅で、体のリズムが船の揺れに慣れてしまったのだ。体が揺れ続け、こらえきれずに市内の1泊3ドルの安ホテルに飛び込んで、そのままベッドに倒れ込んだ。
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 次の日もフラフラしていたが、オートモービルクラブなどを回り、オーストラリアの車検を受け、ナンバープレートを手に入れた。これがないと交通事故傷害保険に入れないのだ。
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 やがて本来の天候に戻り、雨と寒い日が続くようになった。1週間もパースに滞在して、最後のバイクの整備をした。交換したパーツは、クランクシャフト、ベアリング、フロントタイヤ、チェーン、リアショック、バッテリーなどだ。最後の行程だが、砂漠の真中を行くので、ベストコンディションであることが必要だった。
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 荷物を床にぶちまけ、不要なものを整理した。最後はこのパースの町に戻ってくるので、20キロぐらいの荷物を置いていく。それだけの荷物を減らすと、バイクは驚くほど軽くなった。でも、後で後悔することもあった。
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 パースの町を出ると、すぐに牧草地帯に入り、民家もほとんどない景色になった。パースから100キロも北上すると、車の数もぐっと減ってしまった。ただ、風がやたらに強烈に吹き荒れる。ハイウェイの横に見える木は、海からの風にあおられて、長い年月の間に、幹が曲がってしまい、地面を這うようにして伸びていた。空は時どき雨を降らす雲が横たわっていた。
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 牧草地もなくなり、カノーバーに近づいたころ、雨雲が切れた。大空に一つの線が引かれ、南側には、うろこ雲が漂い、北側半分は青い空が輝いていた。そのあまりの違いに驚き、これから晴天の日が続くだろうと思うと嬉しくなった。
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 地図には200から300キロごとに大きな地名があったので、カノーバ―から一気に次の地点へ向かった。ところが、予定の距離になっても、それらしい町の気配がない。小さな丘を越えると、1軒のガススタンドがあった。そこが地図に上に大きく書かれている地名の場所だった。スタンドは、レストランも兼ねているところが多い。
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 北へ進むほど、そういった感覚のずれを感じた。普通の町と町の間は700キロぐらいは離れているようだ。
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 また、北へ行くほど、ガソリンの値段が上がった。パースではリットル26セントだったが、33セントになった。それに食料品も上がってきた。パスでは食パンが67セントだったが、1ドル近くになった。
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 ポートヘッドランドに近くなると、道路上に牛、カンガルーの死体が散らばるようになった。硬直して、縫いぐるみの人形のように丸々として横たわっている。太い尻尾が印象的だ。顔は歯をむき出し、怖い目つきをしている。
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 どこまでも赤い大地が続く。ブルーメまで来ると、寒さから一変して昼間は暑く感じられるようになった。テントを張り終えた後は、革ズボン、パッチを脱いで日光浴をするようになった。北部の牛の放牧地帯に入ってからはハエに悩まされた。水に飢えているのか、唇や目の周りにたかる。水筒にも群がる。イライラしてハエを殺せば殺した数だけ増えてしまう。叩き潰したハエに他のハエが体液を求めて集まる。また、そのハエの鈍さには驚く。目にたかるハエを追い払おうと、手で顔の前を叩くと、ハエが手の中でつぶれてしまう。


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1979/07/09   無線アンテナ
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 幹線のアスファルト舗装を3000キロも走ると飽きてしまう。それほど変化に乏しい景色だ。天気も良くなったので、デルビからギブリバー牧場を経由して、ウインダハムに至る悪路を行くことにする。
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 60キロほどアスファルト舗装が続いた後は、非舗装の車1台がやっと通れる幅になった。小さな川には橋もなくなり、それも進むに連れて深くなった。膝かしらまで水が来るようになった。そいうところに限って砂が深かったり、玉石がごろごろしている。やっと川底を乗り越えると、今度はパウダー状の砂地で転び、全身真っ白になる。
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 行程にちょうど中間ぐらいにマウンテンバネット牧場があり、ガソリンを売ってくれる。鉄柵を開けて中に入ると、牧場は川の向こう側にあった。両岸は砂地で勾配がきつい、川の中で転倒しないように用心してたどり着いた。中庭にドラム缶が転がっている。手動ポンプで入れてもらうが、量はドラム缶に棒を突っ込んで測る。リットル40セントで非常に高い。
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 牧場といっても「あの山とこっちの山の間が俺の牧場だ」というぐらいの大きさだ。ただ、牛を放してあるだけだから牧場らしくもない。「どこに牛が3000頭もいるんだ」と聞くと、「ブッシュの中だ。」という。そんなにあちこちに散らばっている牛を、どうやって集めるのかと聞くと「昔は馬に乗ってやったものだ。今は車で走りまわり、ヤッホーと叫んだら、集まってくるよ。時にはヘリコプターで追い集めるときもある。」
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 庭に無線アンテナがあったので、アマチュア無線でもしているのかと思ったら、この僻地の唯一の連絡方法で、急患が出た場合、それで連絡すればヘリコプターが飛んでくるという。テレビもラジオも届かないから、無線でニュースを知るのだ。」
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 また、子供の教育も無線でやっている。家の無線機からは、家の子供一人一人を呼び出して、無線授業が始まるところだった。先生が子供の名前を呼びかけ、元気にやっているか、などと話している。
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 明日は大きな川を2つ越えなくてはならない。それに備えて、早めにキャンプした。
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 オーストラリア名物のハエを能率的退治する方法を発見した。ただ頭を上げて目を開け、両手を顔すれすれにパチパチと叩けば、ハエがボロボロと落ちる。一度に3匹ぐらいは落ちてくる。それをアリが拾って運んでいく。
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 次の日、ウインダムの手前のギブリバーのあたりから、ひどい悪路になった。洗濯板状の凸凹が激しく、石がでっぱり、砂も多くなった。40キロも走るとうんざりする。食料は3日分しか持っていない。今夜が最後だ。嫌でも予定通りに進まなくてはならない。ギブリバーから100キロで川に到着した。川幅は広いが、歩いて渡ってみると川底は安定していたので、問題なく渡りきることができた。
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 さらに100キロ進むと最後の川に出合う。川幅は広いが、何でもない川のように見えた。歩いてみると、大きな玉石が転がる不安定な川底だった。水深は膝まである。2回往復して歩いたが、コースが決まらない。安全のために歩いて荷物を対岸へ運んだ。わずか80メートルの距離だが、一度にたくさんの荷物を運んだものだから、川の真中でへたばってしまい、荷物を降ろすこともできずに立ち往生した。2回往復して運び終えたが、苦しい。
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 水深はクランクカースの上まで来る。川の真中まで来ると、マフラーの出口がみずの中に入り、音が変わってきた。回転が下がるとエンジンが止まりそうだ。スロットルグリップを開け、注意深く玉石を1つ1つ越えて行った。


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オートバイの旅(58)Alice Springs [8-オーストラリア]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(58)Alice Springs-1979/07/16


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1979/07/16   これから先は 
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 ダーウィンからアリススプリングスへは、幹線道路を通らず、砂漠の中の道を行くことにした。タナミロードと呼ばれている道だ。そのためにバイクの点検を慎重に行い、リアタイヤ、オイルポンプ、クラッチ板の交換をする。
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 さらにツーリストオフィースヘ行き、タナミロードに関する情報を集めたが、よくわからない。手に入れたパンフレットに少し書いてあったが、大変なところらしい。4輪駆動車を使用することとあった。砂が深いらしい。約450キロは無補給で行かなくてはならない。調べれば調べるほど不安になる。道はあるのだ。トラックのワダチがある限り、進めないことはない。
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 アフリカの砂漠でも1日100キロは進めた。それと同じ準備をする。ラビットフラットまで5日かかるとして、その分の食料と水10リットル、ガソリン約50リットルを用意する。
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 ダーウィンからホールズクリークまでの約1200キロを走り、タナミロードの入り口に到着。そこでまた決心が揺らぐ。怖い。心配だ。サハラ砂漠を走った経験はあるが、バイクは15万キロ以上も走ったオンボロだ。
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 石ころの道が続いた。車のワダチだけの道になった。時どき、ワダチが交差するので、このまま進んでよいのか不安になる。ビリナルの牧場に着いて、道が正しいことを確認した。ワダチに沿って行けば、アリススプリングスに到着するが、牧場主は「これから先はさらに悪くなるよ」と注意した。
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 雨季の時期は大変らしい。あちこちに車が泥につかまり、もがいた跡があった。だんだん砂が深くなった。アボリジニたちが使用していた車が、よく転がっている。途中、車のそばにアボリジニの若者が立っていたが、私はその横を通過して行くしかなかった。彼もまた助けを求めようとはしなかった。


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 車のタイヤの跡も残らないほどの砂になった。さらに、登り坂になってしまった。両足を出して勢いをつけて、1メートルほど進む。それを何度も繰り返して坂を上っていく。そのうち、エンジンはオーバーヒートして力がなくなった。そんなときは私も疲れ切っているので、休憩だ。今までの経験から非常に悪いところは、そう何十キロも続かないことを知っていたから、1メートル刻みで進むことに対して、そう絶望的ではなかった。
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 前方から3台の4輪駆動車がやってきた。砂地のワダチ道だから、すれ違うのも大変だ。できる限りワダチの端にバイクを寄せた。すれ違う時に、男が心配そうにどこまで行くんだと聞いてくれた。アリススプリングスまで行くことを伝えると、男はあきれた顔で「これから先は、もっと砂が深くなるぞ。」といった。
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 その言葉を聞いて少しは不安になったが、まだ、私には余裕があった。本当にダメになったら引き返せば良い。しかし、完全にダメだと思うところまで乗り入れて、バイクを反転させるのは、前進する以上に大変だろう。
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 多少のトラブルはあったが、どうにかウエストオーストラリア州とノーザンテリトリー州の境まで進んだ。そこからは砂利の道路に変わり、簡単にタナミ、ラビットフラットにたどり着いてしまった。意外だった。アリススプリングスまでは、砂と闘いながら進む覚悟だったし、それなりの準備もしてきたのだ。
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 このコースの走行距離は、約1000キロで、2か所でガスの補給ができる。ラビットフラットは牧場で、ガソリンと冷凍食パンなどの食料も売っていた。そこには、双子の男の子がいた。久しぶりに人に会えたのが嬉しいのだろう、そこの主人と話していると、彼も近づいてきた。もちろん、バイクにも興味があった。父親が「さわるな。」と大声で叱りつけた。子供たちは泣きべそをかきながら家に逃げ帰った。こんな砂漠の中でも、父親のしつけは厳しかった。
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 もう一つの補給箇所はユエンドゥムというアボリジニの村だ。ここは白人によって管理運営されているようだった。若者の集会所、学校、スーパーマーケット、警察がある。この居住区に入るには許可書が必要だが、ただ通過するだけなら許可はいらない。
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 村のまわりは、汚れたテントや小さな小屋が集まっている。白人社会の住居とあまりの違いにショックを受ける。


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1979/08/09    花園の中
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 アリススプリングスの町は、砂漠の真中にあった。まさにオアシスの町だ。砂漠を越えてきた者に安らぎを与えるものがある。
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 この町でアマチュア無線家に会う。ヤマハバイクの店に主人で、コールサインはVK8NOC。私もハム仲間の一人でコールサインはJR1XPOだ。毎日、日本の局が聞こえるから、久しぶりに日本語を話してみないと家に呼ばれた。
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 コンディションが悪く、JA3,JA1エリアは取れなかった。そして、交信できたのはJA6(鹿児島)のJA6VOYだった。相手はびっくりしているようだった。オーストラリアと交信している最中に、突然日本語を話す奴が出てきたのだ。もちろん他の局の人たちは、私たちの交信がDX(国際通信)だとは思わなかっただろう。
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 日本の局と交信していると思うと私も興奮してきて、声が上ずった。非常に嬉しかった。最近の日本のニュ―スなどを聞いた。オーストラリアでは冬の最中で、私はズボン下をはいていたが、鹿児島のVOYさんは、非常に暑くて困っているなどといっていた。私たちの日本語のQSOをここのVK8NOCさんは不思議そうに聞いていた。
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 アリススプリングス周辺を1周した後、アヤーズロックへ向かう。削ったばかりの道で、砂の窪地が多く、少し苦労する。幹線道路へ出てからは道幅は広いが、ひどい洗濯板で、これがやッかいだ。
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 砂漠の中に忽然と生えた大きな岩。アヤーズロック。1周約90キロ。高さ335メートル。この巨大なものが一つの岩だと思うと楽しくなる。夕日を浴びて赤く染まっていくときは、台地から噴き出した溶岩のようだ。いかにもこの大陸を象徴する神秘な存在だ。
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 35キロ先のある神の山マウントオルガは、花園の中にあった。白、黄、赤の花が咲き乱れて美しい。こんなにたくさんの花が咲いているのに、ここは砂漠というのだろうか。小鳥も蝶もいる。まるで、別世界だ。非常に気に入って写真を撮りまくった。私は、ちょうどこの地域の雨季が終わり、一斉に草花が咲きだすときに出くわしたようです。
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 帰りには、アヤーズロックの頂上に登ってみるつもりだったが、空腹で我慢ができず、あきらめてキャンプ地へ戻った。毎日一回食べるビーンズのトマト煮とパンがあまりにもうまくて、早く食べたいのだ。
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 次の日、花園の中を通って、アデレードへ出発した。


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オートバイの旅(59)Adelaide [8-オーストラリア]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(59)Adelaide-1979/08/03


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1979/08/03          赤チン
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 鉄道がアリススプリングスまで開通していない頃は、ロバ、ラクダなどによって物資が運ばれていた。私は、その道を通って南下することにした。まだ、雨季は始まっていないから、そう困難なことはないはずだ。ガソリンを40リットルほど積んだ。凸凹の幹線道路からそれると、すぐに砂にハンドルを取られて転倒。ガソリン、水、オイルが満タンなので、すぐに立て直すことができず、通りかかった車に助けてもらう。
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 花の草原が続き、写真を撮りながら進む。道が悪いからスピードは遅い。ついつい路傍の草花に目がいく、大地を走ることを楽しみながら進んだ。前方に目の覚めるような赤い花を見つけた。初めて見るものだ。異様なぐらいに赤く、人間に瞳のように、真中に黒い目がある。その花に赤チンというあだ名をつけた。
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 オードナダタは、予想していたような村だった。歴史のある場所だが、今はさびれている。住民も白人よりアボリジニの方が多い。一応、警察も病院もあったが、西部劇の舞台になりそうな村だ。食料品と雑貨を売っている一軒の店で、4日分のビーンズの缶とパン、ビスケットを買う。
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 そこから道は悪くなった。石が多く、川越えする箇所も増えた。トラブルを起こした車の残骸が生々しく残っている。
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 また川に出た。水もきれいで浅いと思った。調べもしないで、突っ込んだ。対岸の手前が深そうなので、横へ逃げた。そこで前輪が石の上に乗り上げ、後輪は砂の中にめり込んだ。一人ではとても動かせない。といって後ろを見たところで、誰も来るはずがない。あれこれしているうちに、バイクは水中に倒れ込んだ。バイクを起こす前に、ぶら下げてあった大切な食パンの袋を取り上げた。やっとのことで、バイクを起こしてそこを脱出したが、その川は塩水だった。たちまち手袋、靴から塩を引き始めた。
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 ウイリアムクリークは、一軒のホテルがあるだけだった。ガスの給油はできる。そこでは、久しぶりの旅行者の私を歓迎してくれた。そこの大きな犬とも仲良くなる。そこで初めて、コブが一つだけのラクダを見た。昔は食料や水を運ぶのにラクダを使ていたのだ。
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 そこから250キロ先にマリの町がある。昔はラクダ、ロバの隊商の出発地があったところだ。この地方としても大きな町らしいが、水道がない。地下水は塩とマグネシウムのため飲めない。それぞれの家の横には大きな水槽があり、雨樋と結ばれている。その雨水はとてもうまかった。


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1979/08/23        生の世界
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 アデレードの町では、バイクの整備をし、ヤマハの技術者のヘインズが家に誘ってくれた。家には5歳、6歳の女の子、そして16歳のおとなしい男の子がいた。奥さんは夜勤の仕事をしている。最近買ったという中古の家は、二人でペンキ塗りや壁紙の張替をしたという。立派な家だ。
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 二人の女の子は、すぐ私になついた。こちらの子供たちは、私たち日本人も英語を話すのが普通だと思っているらしく、普通に話しかけてくる。するとヘインズが、私に分かるように、ゆっくり、はっきりと話してあげなさいと注意する。
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 ヘインズは、ドイツからこちらに来て10年ばかりだ。やっと家が持てるようになったので、ワインを飲み始めたという。今まで我慢していたのだ。すぐ近くにバロッサ。バレーというオーストラリアワインの名産地があった。
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 次の日は日曜日だった。私たちはワイン工場へ出かけた。工場に直販コーナーがあり、味見することができる。そんなところを4か所も回れば、ほろ酔い加減になり、顔も赤くなってしまう。
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 メルボルンに到着して、またバイクの整備をした。バイクは16万キロを走っている。修理やパーツの交換をしたらきりがない。クランクシャフトのウエイトの鉛が緩んでしまって、ベアリングに当たっていた。クランクシャフトは非常に高いので交換することはできなかった。
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 2日間修理した後、旅の報告をするために新聞社へ行った。そして、帰るときにエンジンがかからない。恥ずかしいけど、新聞社の前でバイクをトラックに積み込んで修理工場へ持って帰った。
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 翌日は土曜日で作業場は休みだったが、特別に作業場を開けてもらい、自分でバイクを調べた。原因はオイルポンプの閉め忘れとオイルタンクの詰まりだった。
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 修理をおえて、山の中を通ってシドニーへ向かう。オーストラリアにこんなにたくさんの樹木があるのが、ウソのようだった。これまで砂漠地帯を2か月も走ってきたので、その樹木のある景観には驚きを感じた。スキー板を積んでいる車をよく見かけるが、それもまた奇妙に感じる。本当に東海岸は恵まれた土地だ。緑がいっぱいだ。
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 シドニーの中心部の摩天楼を川越しに見たときは、砂漠の景観のイメージと重なり合って、理解に苦しんだ。市内に入っていくのが怖いような気分だった。シドニーの町は起伏が激しく、非常に変化にとんだ美しい町並みで、町の中を走るのが楽しい。
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 東海岸に沿ってグレート・ドライブ山脈がある。それを超えると砂漠地帯で、人々はアウトバックと呼んでいる。東海岸に住む人たちにとって、そこは全く別世界なのだ。海側が生の世界なら、山脈の裏側は死の世界。
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 ブリスベーンまで北上して、砂漠の中の困難な道を求めて、マウント・アイザヘ向かう。


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オートバイの旅(60End)Perth [8-オーストラリア]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(60End)Perth-1979/09/17


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1979/09/17        ソーセージ
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 ブリスベーンから約2000キロを進んで、マウント・アイザに到着。砂漠の中の鉱山の町だ。大きなヤグラの下に町が広がる。
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 ここで一息ついて、砂漠を通って、再びアリススプリングスへ行く準備をする。食料を1週間分購入し、バイクの整備をする。特にバッテリーが不調なので入念に行った。そして、警察へ行き、出発日と到着日を報告してアリススプリングスへ連絡してもらった。到着日予定日を2日過ぎても、私が向こうの警察へ現れない場合は、捜索開始されることになる。
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 何しろ、ここのポリスたちは、これから私が行こうとしているルートに関して、まったく何も知らないのだ。その地域に足を踏み入れた人が一人もいないので、かれらの心配顔を見てしまった。
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 さあ出発だ。とメインスタンドを外したとたんに、ひっくり返てしまった。ガソリン40リットル、それに水、オイルを満載している。ものすごく重い。これで砂地を走れるのだ。いや1メートルと少しずつ前進するのだ。
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 ノーザンテリトリーの州境へ向かう。ウランダンジの牧場までは、普通の凸凹道だったが、強風で苦労した。
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 悪路に入ると、待ち構えていたのは砂地ではなく、砂埃が堆積した大きな溝だった。その埃の下は砂岩がゴロゴロしている。川を渡った要領で進む。もうもうと砂埃が舞い上がる。エアクリーナが詰まってしまう。大型トラックが作った深いワダチなのだ。とてもまともには進めない。タイヤはワダチの中で、両足はワダチのてっぺんを蹴りながら、歩くように進む。
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 州境を超えると、つくられたばかりの砂利道に変わった。残念ながら、予定日数の半分でアリススプリングスに着いてしまった。
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 アリススプリングスの町は2度目だが、まさに砂漠の中のオアシスで安らげる。すぐに警察へ行って到着を知らせ、またアヤーズロックを経由して、パースへ向かうことを伝えた。
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 身体がだるく、筋肉が弱くなったことを感じてきたので、栄養をつけることにする。旅も終わりに近づいたので、少しぐらいは贅沢をしても良いだろう。ミルク、オレンジジュース、チーズ、バター、ソーセージを大量に買い込んだ。誰もいない河原でキャンプする。バターはすぐに溶けてしまうので、手早く20近いサンドイッチを作り上げた。


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1979/09/22          空き缶
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 自分で作ったサンドイッチはうまい。3食分だ。今から食べるのが楽しみだ。アリススプリングスの最後の夜、すごい砂嵐に襲われた。砂が雨のようにテントをたたいた。テントの下から砂が吹き込み、息苦しくなる。そうしているうちにテントの支柱の杭が抜け、テントがつぶれた。仕方がないので、支柱を手で支えながら寝る。
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 翌朝、目が覚めると嵐は納まっていたが、テントの中は砂が積もって真っ白だ。
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 以前に道路で拾って修理したラジオが、天気の急変を告げていた。これから最後のコースが心配だ。雨でも降ったら、たちまち泥道になってひどい目にあうことになる。
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 バッテリーが不調で、液面の低下が激しい。オーバーフローしている。バッテリー本体が悪いのか、ジェネレータがおかしいのか、それともレギュレータが悪いのか。町を離れてからエンジンがかからなくなったら困る。とりあえず、バッテリー補充液だけを入れ、アヤーズロックへ向かう。幹線道路との分岐点まで来ると、雨が降り始めた。たちまち路面に雨水がたまるようになった。道路の表面は雨水をふくむと滑って危険だ。食料も水もあるので、2日間のキャンプをした。破れたズボン、カッパ、ザックの修繕をして過ごす。
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 2日目にやっと道が乾き始めたので出発する。水を少し含んでいて、土のしまりがよくなったので、快適にアヤーズロックに到着。
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 アヤーズロックから先が、どんな道になるか分からないので、警察へ行き、これからラベルトンへ行くので、向こうへ連絡をしてくれと頼んだ。バイクで行けるわけがない。と相手にしてくれない。さらに無線機も持たないで行くのは無茶だと叱られた。
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 それから、2日間滞在して道が乾くのを待った。キャンプ地で、車で旅行している日本の青年2人に会い、久しぶりに日本語を楽しんだ。
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 マウントオルガを過ぎると道が狭くなり、厳しいコルゲーションになった。恐ろしいほどの振動だ。すでにリアクッションはオイル漏れを始めている。あまりの振動でマフラーの固定金具が割れてしまった。
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 ギブソンとグレートビクトリア砂漠の真中を進む。相変わらず赤い砂とブッシュだけの世界だ。アヤーズロックから200キロの地点にある岩洞窟でキャンプする。


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 次の日は、ロックリバーというアボリジニの居住地で、ガソリンと食料の補給をする。さらに洗濯板の道を西へ進む。何もない。ウエストオーストラリア州に入ると意外に道がしっかりしてきた。風車のあるところにはアボリジニの村があった。また砂で苦しむようになった。キャンプしようと道からそれたとたん、バイクが砂の中にもぐってしまった。脱出するのに一苦労した。分岐点でキャンプしていると、夕方になって、車でキャンプしている白人の3人組がやってきた。私の横でキャンプしても良いかと聞いてきた。
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 彼らは簡単に火をおこし、コーヒーをいれてくれた。カラカラに乾いた砂漠の中で飲むコーヒーは、驚くほどうまかった。彼らの2人は教師で、私たちは夜遅くまで話をした。
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 彼らは、私が全く炊事道具を持っていないことを知ると、空き缶に針金を通して、ヤカンを作ってくれた。そしてインスタントコーヒーを1びんプレゼントしてくれた。更に火の起こし方まで教えていった。この乾燥地帯の灌木は乾ききっているので、マッチ1本でOKだ。
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 それ以来、毎晩、火を起こしてコーヒーを飲むのが楽しい習慣になり、おかげでなかなか眠れず、睡眠不足になってしまった。
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 また、バッテリーの状態が悪化した。液面の低下が激しくなった。どうやら放電はしていないようなので、過充電による蒸発かもしれない。レギュレータがいかれてしまったらしい。ヘッドランプをつけて過充電を押さえるようにした。
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 ブラックストン・キャンプからは、大地の色が黒く変わり、砂利になった。
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 ワルバートンミッション、ここはアボリジニの町だ。雨季になると交通が遮断されるので、大きな食料ストックがあった。ここにはガレージがあったので、バッテリーの点検をする。ライトを付けていけば何とかなりそうだ。長い間、洗濯板の道が続いたので、ステアリングがいかれてしまい、嫌な音がする。
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 6日目にラベルトンの町に到着。そのまま予定のコースでパースへ向かう。カルガリーの町まで来ると、またラジオが聞こえ始めた。「州浜」という歌が日本語で流れてきた。もう旅も終わりに近いことを感じた。
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 次の町で突然、エンジンが止まり、ランプが消えた。ヘッドランプとフラッシュランプをつけたまま走ってきたので、逆に完全にバッテリーが空になったのかと思った。しかしヒューズが飛んでいた。
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 今度はエンジンから異常音が発生。クランクシャフトがぐらぐらになってしまったのだ。ジョイントが抜けてしまったらしい。あとひといきだ。最短コースをとって、パースへ向かった。
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 パースに到着後、クランクシャフトとピストンを交換し、バイクを日本へ送り返した。


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・最後に、長い間、読んでいただき、ありがとうございました。
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・これは1980年に、旅の日誌をそのまま書き写したものです。日時、場所の間違いや、そして良くない表現があるかもしれません。お許しください。


・この旅の全写真集は下記のブログにあります。


https://tamaiyozo1976.blog.ss-blog.jp/2020-09-02-1
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・最近、旅の魅力を書いた小説を見つけました。紹介します。アメリカの40歳代の男が、自転車旅行で、いろいろな人と出会い、そして自分自身とも出会う話です。
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「ぼくとペダルと始まりの旅」ロン・マクラーティ著 新潮文庫  森田義信訳
インターネットの通販で購入できます。
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