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オートバイの旅日誌(31)Senegal [5-アフリカ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(31)Senegal-1977/07/21


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1977/07/21   信号機もあった
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 3つ目の大陸アフリカに期待と不安を抱いて、飛行機に乗る。ひと眠りして、ブラジル時間の午後3時、機内のライトがついて起こされた。アフリカの西端のセネガルのダカールに到着だ。飛行場はどこも同じなのだが、殺風景なものだ。すごい暑さ。現地時間の午前6時だというのに、汗ばんできた。検疫を終えて入国検査を受ける。こちらの役人は他の国のように怖い顔をしておらず、楽しそうに仕事をしていた。
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 セネガルからの出国用の航空券を持っていなかたので、私は入国検査に備えて、わざわざヘルメットだけを機内荷物として持ってきていた。これを見せて、次の国へ行くのだと言えば、まず問題なく、入国スタンプを押してくれるだろうと考えた。すぐ、OKとなった。


 大部分の荷物とバイクは別送品として、同じん飛行機で着くことになっていたが、同じ便には積まれていなかった。
 この国の公用語はフランス語だが、係員は英語もできた。もちろんみんな肌の黒い人たちだ。
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 日本を出発する前、アフリカのことを本で読んで、ある程度は知っているつもりでいた。しかし、実際にアフリカ大陸に立ったとき、黒人、ジャングル、動物、砂漠などが頭に浮かび、アフリカの旅に不安を覚えた。
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 飛行場の外へ出てみる。外のん風景はさびしい限りだ。乾ききった樹木が少しあるだけ、草などは全くない。砂ばかりだ。黒い青年たちがこちらを見ると怖かった。
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 初めての土地なので、市内までタクシーで行こうと思ったが、料金が1000CFフランと聞いてびっくり、バスで行くことにした。
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 ダカール市内まで50CFフラン。バスは時おり幹線からそれたりして町を順順に寄っていく。飛行場を出るときはがら空きだったが、いつの間にか満員になってしまった。どちらを見ても黒い顔だ。ズボンをはいているいる人より民族衣装の人の方が多い。途中の郊外の風景は道路のアスファル舗装を除いては砂ばかりだった。その中に民家がぽつんぽつんと建っている。本当に大変なところへ来てしまったと思った。
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 市内に入ってバスを降りると、風もなくなり、更に暑くなった。


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 以内には、ヨーロッパ製の車がたくさん走っていた。きれいなガススタンドもあった。道路にはセンターラインがあり、交差点にはちゃんと信号機もあった。そんな当たり前のことが驚きとして感じられた。
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 この町の店の経営者はほとんどが白人だった。アフリカ大陸であっても、アフリカの町ではないのかもしれない。(白人の町のようだ。)
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 日本大使館があり、私宛の手紙や小荷物を受け取りに行った。二人の日本青年の旅行者にあった。彼らは、すでに1年以上もアフリカの旅をしているので、私のようにおどおどしていない。もう何に対しても興味はないし、何かを求める気持ちもないと言っていた。
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 昼過ぎに彼らに案内されて、安そうな飯屋に入る。ネズミが這いずり回っているような汚い店だ。わずか100フランで皿一杯に盛られたチキンライスが食べられた。ひと切れの鶏肉と漬物がついていた。冷たい水もついていた。旨かった。私の皿には飯粒がたくさん残っていたが、彼らの皿には飯粒一つ残らず、肉は完全に剥がされ白い骨が転がっているだけだった。今までの自分の旅の甘さを感じた。
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 飛行場へ行ってみた。係員は、バイクは届いているといった。私は嬉しくて、そわそわしながら、その男の後に付いて行った。着いたばかりのようで、大きな木箱が倉庫の入り口のそばに放置されていた。木箱は高さ幅とも1メートル、長さは2メートルもある大きなものだ。税関事務所の人たちは、バイクの無税通関のための書類(カルネ)を知らなくて、一時は輸入税を支払うことになりそうになったが、カルネを説明して、無事、受け取ることができた。
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 荷物を満載して市内へ戻るとき、バイクが非常に重く感じられた。何度もふらついた。アフリカに着いた時のバイクの走行距離は7万4280キロを示していた。

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タグ:セネガル

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オートバイの旅日誌(32)Mali [5-アフリカ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(32)Mali-1977/07/26


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1977/07/26         ヨーロッパの青年4人
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 セネガルに滞在中にマリ、オートボルタ、ガーナ各国のビザを取り終え、セネガル奥地への旅に出た。さいわい曇り空で、さほど暑くはなかった。途中雨にあったが、気持ちがよいのでそのまま走る。川に沿って進んだ。面白い樹形で知られるバオバブの大木を初めて見た。
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 この雨の中の走行中に、バイクでサハラ砂漠を越えるというヨーロッパの青年4人に会う。BMW750とスペイン製のバイク3台のグループだ。それに4輪駆動の救援車が付いていたが、バイクに積まれた荷物は私以上に多かった。それも凸凹道を考えた積み方ではなかった。おそらく全員ひっくり返って痛い目に会うだろう。
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1977/07/28
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 タンバクンダに着く。そこで、あるホテルの中に中庭に例のヨーロッパの青年たちがいるのを見つけた。彼らのバイクはどれもこれもひどく壊れてれていた。案の条、出発そうそう全員が転倒し、バイクの破損などで気がいらいらし、グループは解散したという。
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 セネガルとマリの国境には川が流れ、橋がない。そこで汽車に乗せていくことになった。(警察で、別のルートについて聞いてみた。それは、自然公園の中を行く道で、野獣がいるからバイクでは危険だということであった。)
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 マリのバマコでバイクが3000フラン、人間が3700フランだった。バイクを貨車の所へ持っていくと、車を貨車に固定している作業員たちがいて、固定するのに使用する針金代500フラン、作業料2000フランをよこせという。高すぎると思ったので1500フランにさせた。
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 汽車は2日遅れで出発。貨車の上には車が2台にオートバイが4台積まれた。私たちは乗車券を買わされたのに、2日間、貨車の上で過ごすことになった。
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 昼間は柵も何もない貨車の上だから、非常に迫力があり、楽しかったが、夜になるとバイクとバイクの間に身を横たえて、落ちないようにして寝るのだから大変だ。
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1977/07/30
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 夜、バマコに到着したとき、ものすごいスコールに襲われて、びしょぬれになってしまった。
 バマコでは、マリ共和国への通関手続きをしたのだが、その事務所の係員が何もわからず、3日間もそのために市内を走り回ることになった。
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 バイクは、もう7万キロも走っているので、サハラ砂漠を無事に越えられるか心配だ。一週間も整備を怠けるとバイクの調子が半分になってしまう。エンジンのケーブル軸取出しのオイルシールがいかれたらしく、オイルが上がってくる。また、エンジンのスタートキックのシールもおかしい。それに、たびたび道路の穴に落ちるので、リムが歪んでしまっている。


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1977/08/06           髪の毛
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 オートボルタに入る。町の中はイスラミックの塔がそびえ、正方形の土壁の家が続く。オートボルタに入ってからは、雨の日が続き、滑りやすい路面をノロノロと進んだ。
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 ワガドゥグの手前の村でキャンプしたとき、村人とは全く言葉が通じないが、手伝ってもって後輪のディスクパッドを交換した。泥道のため、パッドの消耗が激しい。作業が終わるやいなや上空の黒雲から雨が落ちだした。雷も一緒だ。
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 テントの中は蒸し暑い。私は裸になって横になった。村の子供たちは雨が降っているのに私のテントから離れずに遊んでいる。
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 夜中、雷の音で目が覚めた。ものすごい音だ。強い風と共に激しい雨がやて来た。テントは横風を受けて吹っ飛びそうだ。寝袋がえらく濡れていると思ったら、テントの中は水浸しだ。何もかもびしょ濡れ。あわてて革ズボンとジャケットだけ荷物の上に移す。今更、ジタバタしても仕方がないので、水につかったまま、寝ようとしたとたん、地盤が緩んだために、バイクがテントの方へ倒れた。外へ出たくないが、そのままにしておくとガソリンが流れ出しってしまう。裸の上から雨合羽を被って飛び出す。テントのまわりは水だらけ。大きな水たまりの中にテントが浮かんでいた。運悪く、地盤の一番低いところにテントを張ってしまったらしい。
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 バイクを起こすと、今度はテントの片方の支柱が倒れた。こんなときに限って金づちが見つからない。テントの中に逃げ込んだ時はびしょ濡れ状態だ。
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 6時過ぎ、明るくなったところ、雨も小降り、雷も遠ざかった。このままじっとしていられないので、走って乾かすことにした。準備をしているとき、予想もしなかった雷がすぐ横に落ちて、頭の全部の髪の毛が一瞬総立ちになった。
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1977/08/09   泥道の走行 
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 ワガドゥグに到着。ナイジェリアなどのビザ取得手続をして、郊外の村でキャンプ。村では子供たちが総出で私の行動を見守っている。どこにでもついてくる。だから畑の中に入って排泄作業もできない。村人にトイレを使わせと欲しいといっても言葉が通じない。小便、大便をするまねをしても通じない。
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 ロバの糞を指さしたら、わかったらしく川岸へ連れて行った。そこには数頭のロバが草を食っていた。青年がロバに綱を掛けて私に渡そうとする。もう、違うんだよ。私がロバの糞を指さして自分の尻をポンポン叩いたものだから、私がロバにでも乗りたいのだと勘違いしたらしい。万策つきて、ガキどもをこっちへ来るなと追い払って、畑の中へ突進した。
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 泥道の走行は、ディスクブレーキパッドを極端に痛めた。そのため2日おきの交換だ。この日も村人に手伝ってもらって交換する。
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 夜、村人から夕食に誘われた。その土地の家には電気などない。主人がハンドライトで私の手元を照らしてくれる。出されたものは、小麦粉を水でこねたようなものと納豆のようにぬるぬるしたもので、私は食べられなかった。主人は私のためにビールまで買ってきてくれた。
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 お返しに数個のパンを差し出すと、父親はその場で、子供たち全員に小さなパンをさらに小さくちぎって分け与えた。楽しく過ごしてテントに戻ると、子供の一人がテントの見張りをしていた。父親がそうするように命じたらしい。嬉しかった。


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オートバイの旅日誌(33)Ghana [5-アフリカ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(33)Ghana-1977/08/10


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1977/08/10   奴隷海岸
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 ガーナの国境に到着。ガーナの通貨の価値が低いため、その周辺には両替屋がうろうろしている。彼らはドルより西アフリカフランを欲しがった。税関の職員までが、しつこく両替を迫る。
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 国境から首都アクラへ向かって南下する。今まで通過してきたアフリカ諸国の中では、もっとも豊かな印象だ。道路端では、あの土壁と草屋根の家はあまり見かけない。ほとんどが切妻屋根の木造建築だ。土壁の家でも作りが高級だ。土地はよく開拓されていて、家の周りはトウモロコシが植えられていた。(おかげで私はテントを張る場所を見つけるのに苦労した。)
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 ガーナには町ごとに、ちゃんとしたガススタンドがあったが、肝心のガソリンがない。どこでも配給トラックを待って、長い列ができていた。手に入るときは、私の予備の20リットルタンクも満タンにすることにした。
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 マンボングを過ぎたあたりから熱帯雨林地帯になった。今までになかった大木が現れた。その下には熱帯植物が生い茂ている。野生のバナナもいたるところにある。つまりジャングルだ。建物の形まで変わった。イギリス植民地時代の建物である。古風な西洋木造建築がジャングルの中に暑苦しそうにたたずんでいる。
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 アクラに到着して、これから行く国々のビザ取得のために1週間つぶした。
 アクラの町はごった返していた。海の匂いが立ち込めていた。植民地時代をしのばせるものはほとんどない。海岸に出ると、ヤシの木が並び、潮風をいっぱいはらんでいる。海岸では女たちが小魚をドラム缶で煮ている。
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 バイクに群がる子供たちの写真を撮ろうとしたら、一人の男が私のカメラをつかんで、非常に興奮して叫ぶのだ。そして、子供たちに石を投げて追い散らした。私もカットなって相手になっていると、別の男性が飛んできて「あいつは狂人なんだ。許してやってくれ。写真も気にせずに撮ってくれ。」となだめた。(奴隷海岸と言われた歴史があっただけに、海岸での行動は気を付けた方がよいらしい。)
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 1週間で、ケニヤ、タンザニアまでのビザをほぼ取得したが、ザイールのビザだけは取れなかった。ここの大使館ではガーナの住民だけにビザを発給する。だから、日本国籍の私は、日本で取得しろという。それを聞いて困っているとき、偶然、大使に出会って、私の旅に興味を持ってもらった。そして、特別にビザの発給を受けることができた。1か月滞在可能なビザをもらった。係員は「キミは本当にラッキーな男だ」と祝福してくれた。
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1977/08/24   ディスコや映画
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 ガーナのアクラからトーゴへの国境の町ファラオへ向かう。途中で道が分からなくなり、ポリスに尋ねたところ、詳しく教えてくれた。そして、200キロ走って出入国事務所に着いてみると、係員は私が来ることを知っていた。私の出国がうまくいくようにと、ポリスが心配して電話をしてくれたらしい。係員たちは非常に好意的で出国は簡単に終わった。トーゴへの入国もスムースに完了した。
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 首都ロメの町の海岸でキャンプする。そこでフランス人の青年と仲良くなり、その日から毎日ディスコや映画や食事に連れていかれた。彼の両親のきれいな家の庭でキャンプした。しかし、ほとんど毎日のように電気、水道がストップして、トイレの便器は黄金の山積みとなった。近代的な家もアフリカではどうしょうもないようだ。


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オートバイの旅日誌(34)Nigeria [5-アフリカ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(34)Nigeria-1977/08/27


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1977/08/27   橋と曲がり角
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 トーゴからベニンへ向かう。ベニンの国境事務所は異様な雰囲気だった。2日間滞在のビザを取っていたが、軍人の入国審査官は、パスポートを見ただけで「だめだ。引き返せ。」というのだ。国境には軍人があふれ、住民はおどおどしながら入出国手続きをしている。もちろん、私はそう簡単にはあきらめない。そこの親分らしき男に面会を求め、ちゃんとガーナでビザを取得してきたのだと説明して、やっとのことで、ノンストップでナイジェリアへ向かうことを条件に24時間以内の滞在が許された。
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 トーゴの青年がいった言葉が思い出された。ベニン、ナイジェリアの奴らは気が狂っている。私はその言葉の意味が少しずつ分かってきた。軍人支配の国家で軍がのさばっている。・・恐ろしい空気を感じた。その後、町に入るたびに軍人につかまった。別に面倒なことにはならなかったが、まったく大変な国だ。強制されなくても、今日中にこの国から抜け出そうと思った。
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 町の中を通りたくなかったが、道路が町の中に入るたびに道が分からなくなり、うろうろしているうちに、軍人やポリスに捕まってしまうのだ。
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 その日のうちにナイジェリアに到着してほっとした。銀行はすでに終わっていたので、商店で両替してもらった。正式レートの2倍だ。
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 ナイジェリアへ入国手続きを終えたときは、すでに暗くなっていて、キャンプできそうな場所を探せないので、警察署の中庭でキャンプさせてもらう。
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 首都ラゴスでは、ビザの取得と簡単なバイクの整備をした。アフリカでは、私が使っているヤマハRD250のパーツを手に入れることは不可能だ。しかし、ナイジェリアは、金まわりの良い国で、中型バイクが走っている。ヤマハRD200、ホンダCD175が多くみられる。自動車やバイクが非常に普及していて、道路の舗装も良いようだ。しかし、十分なガソリンがないのだ。そのうえ交通ルールはないのと同じで、市内でも郊外でも事故車がそこらじゅうに転がっている。
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 日本大使館のある市の中心地からホテルに帰る間だけで5件以上の事故を目撃した。交差点でのバイクの炎上、持ち主らしい男が必死に砂をかけていた。そして次の交差点ではトレーラー車とバスが側面接触、バスは前輪がもぎ取られて前へつんのめっていた。お次は自動車専用道路でのことで、バスとトラックの接触、乗用車の炎上。ガソリンタンカーと小型トラックの追突、もうめちゃくちゃだ。渋滞して前へ進めないので、バイクは歩道の上を走ったり、植え込みの中に入ったりしている。
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 事故車をそのまま放置してあるため、車がつかえてしまうのだ。それを避けようとした車が後ろも見ずに大きくハンドルを切るので、接触、追突、炎上・・・もう日本以上に救いようのない交通地獄だ。バスなどは後ろを見るにもサイドミラーがないので、ボディーは傷だらけ。
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 ポリスと軍人のバイクが交差点で衝突。お互いに「バイクを起こせ。」と叫び、大喧嘩が始まった。そんな男たちが交差点に立って、交通誘導をしているのだ。だから交差点の混乱は更にひどくなる。停まった方がよいのか進んでよいのかどうもわからない。私たちがそのまま停車して、誘導を待っていると、車のボディを鞭のようなもので叩いて、なぜ早くいかないのだと怒鳴りつけるのだ。
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 3日後にこの町から逃げ出したが、郊外へ行っても、事故の数は減らなかった。とくに、橋と曲がり角には、事故車がごろごろ放置されている。
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 カメルーンの国境の手前の町アバカリキでは、病院の庭でキャンプさせてもらった。暗くなるまで日記などを書いて夕食のパンを食べていると、「パンしかないの?」と声を掛けられた。彼女は病院の責任者でバイクをもっと安全な場所へ移動させ、これを食べなさいと魚の缶詰と缶切りを持ってきた。とても親切な人で、夜になってからもテントまで紅茶を運んでくれた。


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1977/09/05   国境でキャンプ
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 イコムから90キロほど道を間違えた。もう一度イコムへ引き返し、カメルーンへの道をたどる。とてもひどい道で、これが本当にカメルーンへの道かと不安になった。村人に会うたびに道を確かめて進んだ。一度、転んだだけでカメルーン国境に到着する。
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 大きな川が国境で、釣り橋が架かっていた。出入国手続は簡単に終わる。3時を過ぎていたので、次の町までは無理だろうと考え、国境でキャンプ。飯屋で客の一人にビールをおごってもらう。そして、彼からこの先の道が非常に悪いことを知らされた。
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1977/09/06   まだ30キロ
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 7時半出発。マンフェまで75キロ、いくら道が悪くても午前中には着くだろうと思った。ところが出発してすぐ、とんでもない箇所にぶつかった。登り坂の路面が2メートも落ち込んでいる。しかも、すごいぬかるみだ。バイクを絶対停めてはいけないぞと、自分に言い聞かせて突っ込む。しかし、やはり登り切れずに、斜面の途中で止まってしまった。ずるずると後退し始める。最後には全く動けなくなった。とても一人では登れそうにない。雨は降り続いていた。疲れて休んでいると、エンジンの音が聞こえ、丘の上からバイクがやってきた。近くの住民らしい。その若者は、エンジンを止めて降りてきてくれた。二人でバイクの荷物を全部おろし、斜面の泥を削て再度アタックする。一度エンジンは止まってしまったが、なんとか押し上げた。二人とも泥まみれになってしまった。
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 次は、その若者のバイクをおろす番だ。いくら悪い道でも下り坂は楽だった。そこから先も登り坂のたびに苦労することになった。小型トラックの運ちゃんや小型バスの乗客たちに助けられたり、助けたりしながら前進した。小雨が降り続いていたので、休む所もない。全身がだるく、もう疲労の極限まできていた。1時を過ぎたが、まだ30キロしか進んでいなかった。
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 村があるたびに、コーラを見つけて飲んだ。喉からは苦い胃液が上がってきて苦しい。泥のためにブレーキはきかない。靴の中は泥でいっぱいだ。
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 マンフェの1キロ手前で村の学校を見つけた。キャンプすることにした。村といっても家は10軒ぐらいしかない。その一軒で魚の缶詰と小さなビスケットを買う。捨てようと思っていた古いパンを残しておいてよかった。村人に聞くと、この先にまだ上り坂のぬかるみがあるという。今日はもう、これだけで結構だ。約7時間でわずか60キロしか進んでいない。村の青年によると、私の行動は非常に速いという。バスなどは3.4日はかかるそうだ。子供たちに手伝ってもらって、大きな水たまりの中でバイクを洗う。恐ろしいほど、泥が吐き出された。
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 その後、雨は毎日降り続いたが、マンフェの町からは道も平坦になり、なんとかドゥアラに着くことができた。


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