SSブログ
4-中・南アメリカ ブログトップ
前の4件 | -

オートバイの旅日誌(25)Mexico [4-中・南アメリカ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(25)Mexico-1976/12/06


FH000030.jpg


-
1976/12/06   BANCO
-  
 月曜日。この日はメキシコに入国するのだ。夜12時ごろ目がさめた。ラジオが鳴りっぱなしだ。昼間は直射日光が強くて暑いくらいだから、寝袋に入らないで寝てしまったのだ。夜になってからどんどん気温が下がり、寒くて目が覚めたのだ。
- 
 ここからは半砂漠地帯で、標高は2000フィートだ。気温の変化が激しい。登山用靴下をはき、雨合羽を着て、寝なおした。3時ごろ、寒さが更に厳しくなり、眠れなくなった。何か食べたら暖かくなるだろうと、寝袋の中から手を出してパンをかじった。
-
 6時半、明るくなったので、テントを出る。手がかじかんでいく。寒暖計を取り出すと、ブルーの液体がみるみる下がっていき、マイナス9度で止まった。空気が乾燥しているためか、バイクのシートには、ほんの少しだけ霜が降りていた。
 エンジンも冷え切っている。なかなかかからない。かかっても少しグリップを回すだけで、止まってしまう。
- 
 来た道を引き返してサンディエゴに向かった。市内でガスを満タンにして、フリーウエイ805号線を南下する。ティファナへ向かう。近づくにつれ、緊張してきた。うまく国境を越えられるだろうか。メキシコに入ってしまったら、アメリカのように簡単には欲しいものが買えない。何か必要なもので買い忘れはないだろうか。
-
 30キロも進むと国境のゲートに着く。車の列の後ろに並ぶと、係員からそのまま早く通過しろと催促される。あまりにも簡単に入国できたので、本当にメキシコに来たのかいないのか半信半疑だった。しかし、ゲートを超えるだけで、こうも町の様子が変わるものかと驚いた。私にとってアメリカとメキシコの文化の色合いの違いはショックだった。初めて「国境」という感覚を実感した。
-
 今日の目的地であるエンセナダの標識をやっと見つけて町の中心地へ入る。ものすごい人だ。アメリカではこれほど混雑している町はなかった。汗をびっしょりかきながら、信号待ちをしていると、大きなビルにBANCOというサインが目に入った。銀行だろうと推測する。私が初めて覚えたスペイン語だ。英語はわずかながら覚えたが、スペイン語はまったく白紙である。バイクを道路わきに停め、その銀行に入る。広いスペースだが、入り口まで人でごった返している。どの列に並んでよいのかも分からない。まごまごしている私に、旅行者らしい青年が話しかけてきた。この時ばかりは、英語が日本語のように身近に聞こえて嬉しかった。
-
 行列はまったく前へ進まない。やっと1時間後に両替できた。メキシコペソの価値が下がってので、両替する人が多い。
-
 銀行を出ると、またまた驚いた。銀行のまわりは二重駐車になってしまい、バイクを出すにも出せない。私は汗びっしょりだ。朝、出発した時のままの姿で、雨合羽を着ていた。困っていたら、ポリスらしい男がやってきたので手振りで助けを求めた。彼は銀行へ入っていき、しばらくして男と出てきた。車を動かしてくれた。
-
 早く、この町から抜け出したかった。町の外へ出たときはほっとした。できたばかりの有料道路を南下した。
 3時過ぎ、陽がだいぶ海面近くなってきたので海岸にテントを張った。3人の男が泳いでいた。彼らと話したが、まったく言葉が通じない。お互いに意思を伝えようとして大声を出しあった。でも英語とスペイン語では通じないのだ。


central America.jpg


-
1976/12/07   トウガラシスープ
-
 マネアデロの町に入り、カフェーを探すが見つからない。スペイン語の看板はすべて同じように見える。アメリカの町並みに慣れてしまっていた私には、バハ・カリフォルニア半島の景観は異様だった。一口にいうと、町はバラックの集まりだ。同じようなバラックばかりなので、店の見当がつかない。
-
 ガソリンは、エキストラ(スーパー)がアメリカのレギュラー並みで、オクタン価は91。レギュラーは81だった。(アメリカではハイオクは98、レギュラーは89.)エキストラは10リットル当たり40ペソ(約600円)レギュラーは10リットル当たり33ペソ。
-
 先を行くと、「アルト」の標識。ストップサインが目についたので、横の建物に入ってみた。そこが正式の出入国管理事務所のようだった。パスポートとツーリストカードにスタンプが押された。
-
 次の町サント・トーマスでガスの補給をしたとき、レストランを教えてもらった。その店は入り口が小さくて奥が深く暗い土壁で、とても自分では見つけることのできないものだった。トイレを探したが、そんなものはない。レストランにないぐらいだから、ガススタンドにあるわけがない。まいった。スペイン語の会話帳にあったトーストを注文する。出てきたものはカリカリに焼いた薄いパンの上にツナとキャベツ、トマトなどがのっていた。小さなピザのようだった。
-
 それと一緒に、カップでスープのようなものがついてきた。スプーンで混ぜて飲んでびっくり。トウガラシスープだった。後でドライブしながら考えたところ、カップに入っていたのはスープかと思ったが、本当はトーストにかけるスパイスだったらしい。

-



共通テーマ:バイク

オートバイの旅日誌(26)Mexico [4-中・南アメリカ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(26)Mexico-1976/12/09


FH000029.jpg


-
1976/12/09   パサパサ
-  
 半島の中ほどまで南下すると、巨大なサボテンが岩の間から現れ始めた。高さは20メートルぐらい。南下するにしたがって、町はさらにひどくなって、買うパンは乾燥して、パサパサ。缶詰も錆びている。
-
1976/12/10   トイレ
- 
 サンタ・ロザリアは人口1万の工業の町だ。食料(パンだけ)の購入とカフェーにも行きたかったので、ハイウェイから下りた。
-
 木造の半分壊れた家並みとほこりが舞い上がる道路。ゴミが散らかった大通りの両側に、塗装の剥げた古い車が駐車している。その中をノロノロ進みながらメルカード(市場)とカフェーを探す。見つかったが異様な雰囲気なので、怖くなり入るのを中止した。
-
 次の町ムレジも同じような町並みだが、すぐに道が分からなくなった。狭い道で一方通行だ。どんどん奥へ入ったら行き止まりだ。そこにタクシーの運転手がいたので聞いてみるが、まったく通じない。
-
 どうにかこうにかメインストリートのようなところへ出て、手書きの小さな看板にレストランとあるのを見つけた。ドアが2つあるだけの小屋のようなところだ。6人ほど座れる丸テーブルがある。開け放たれたドアからバイクが見える位置のテーブルに座り、コーヒーを注文する。これだけはすぐに通じた。
-
 娘がプラスチックのカップにスプーンをつけてもってきた。私はきれいなカップもあるんだなと喜んでカップをのぞくと透明だ。湯だけだ。あれまあと思ったら、テーブルの上にインスタントコーヒーの容器があるのを見て納得。自分の好きなだけ、インスタントコーヒーを入れて飲むという仕掛けだ。
-
 トイレへ行きたいが通じない。トイレ、レストルーム、ラバトリー、ウォッシングルーム、WCなど知っている単語を並べてみたが駄目だった。しかし、根性で探し出した。裏庭のドアの代わりに布が垂れ下がっている小屋が便所だった。トイレットペーパーが備えられているのが不釣り合いだ。
-
1976/12/11   耳鳴
- 
 ロレトの町の近くのカーブで、道路端にいた牛がハイウェイ目がけて突進してくる。茶色の牛は横目でちらっとこちらを見て、バイクのほんの1メートル先を通過していった。冷や汗をかいた。
-
 ロレトの町から気候が変わったらしく、景色も変わった。今まではサボテンしかなかったが、山に緑が多くなり、樹木らしいものも見られるようになった。ギガンタの山脈を超え、インスルジェンツの村へ下っていくと畑もみられるようになった。大農園だ。こちらではランチョと言っている。
-
 安全性を考えて、アメリカの交通規則のまま、昼間もヘッドライトをつけて走っていた。前からくる車がみんな「ランプがついているぞ」とヘッドライトを点滅させて合図してくる。私はそのたびに、ありがとうと手を上げなくてはならない。アメリカでは「ランプがついていないぞ」とライトの点滅で注意されていたのだ。
-
 町に近づくと道路わきに花や十字架や石碑が並んでいる。交通事故に泣く家族が多いようだ。町から離れると行きかう車も減り、ただ、牧場の柵だけが延々と続く。
-
 夕方、空地にバイクを入れ、エンジンを止めると、急に音のない世界が襲ってくる。こんな所には、小鳥さえいない。風もない。自分の呼吸する音だけがいやに大きく聞こえる。生き物である自分の存在を感じる。耳鳴りもしてきた。しばらくして耳の鼓膜が鈍い音に共鳴した。音としてではなく、耳鳴りのような感じだ。だんだん大きくなっていき、車が私の前を通過していく。その排気音は、騒音というより、音のない世界から救ってくれる音楽のようだった。


image268.jpg


-
1976/12/12   黄色いチョウ
- 
 この半島の州都ラパスへ向かう。牧場の柵のないところでは、道路に飛び出した牛がはねられたて死んでいる。坂の途中で見つけた牛の死体には、ハゲタカが群がり、私のバイクの出現で一斉に飛び立つ。目の前が真っ暗になるぐらいのすごさだ。そのうちの1羽がヘルメットにぶつかるところだった。
-
 ラパスは人口6万人のバハ・カリフォルニア州の州都で、大きなスーパーマーケットもあり、浜の近くには美しい家々が並んでいた。
-
 さらに南下して、キャンプを決めたエル・トゥリウンフォの近くまで来ると、大きな樹木はないが、落葉の灌木が出現し、黄色いチョウが目についた。そして、ディディディディと鳴くゴールデンフィッシャーという小鳥も現れた。
-
1976/12/13   ゲンゴロウ
-
 半島の南端サンルカスに到着。この近くには葉の小さな樹木もあった。港の前のレストランにはキョウチクトウも植えられていた。
-
 夜、港の近くでキャンプする。水筒の中に水垢のようなものが浮かび、小さなゲンゴロウのような虫が泳いでいた。匂いはないし、うまい水だったので、ヨードチンキを3滴ほど落として飲んだ。ゲンゴロウはまだ泳いでいた。

-



共通テーマ:バイク

オートバイの旅日誌(27)Mexico [4-中・南アメリカ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(27)Mexico-1976/12/14


image279.jpg


-
1976/12/14       正月のお餅
-  
 州都ラパスへ引き返している途中、突然犬がハイウェイへ飛び出してきた。一瞬前輪に犬が触れたかと思った。犬はバイクと並んで走り続け、バイクの前へ出ようとする。大きな犬だったので、引いてしまったらバイクは大転倒する。スピード上げた方がよいのか落とした方がよいのか困ってしまった。
 この辺のトラックには、大きな鉄格子のパイプが付けられている。突然飛び出してくる動物や牛が多いので、万一の場合に備えて、つけているらしい。


 メキシコ本土に渡るフェリー乗り場について、切符を買おうとしたら、バイク用の切符を売ってくれない。何か書類が不足しているらしいが、スペイン語なので理解できない。とうとうフェリーに乗り損ねて事務所の前で寝ることにした。港の警備員と親しくなり、私もバイクも見張ってもらうことにして寝た。
-
 この半島は免税地区なので、本土へ渡るための税関の書類が必要だった。町をあちこち走り回って書類をそろえた。そんなことで切符売り場の娘とも親しくなり、デッキクラスの切符を頼んだのに、キャビンの切符をくれた。
-
 メキシコ本土の幹線はすごい交通量だ。トラックが追いかけてくる。カーブでも登り坂でも追い越そうとするので、恐ろしい。しかし、だんだん慣れて、私の運転の荒くなり、登り坂でも追い越しするようになった。
-
 1976年のクリスマスはメキシコ市で迎えた。暑くてクリスマスという言葉は、ピンとこない。
 ユカタン半島のはずれに美しい海岸を見つけた。新婚旅行するなら、また、ここへやってこようかなどと思てみたりした。
-  
 メキシコ郊外のピラミッドの下でキャンプした時、銃を持った男たちに取り調べを受けたりして驚いたが、夕方のピラミッドのシルエットは美しく、印象的だった。
-
 南部にジャングル地帯には珍しい植物が生い茂り、地表が全く見えないぐらいだ。空地があっても植物で覆われていて、キャンプができない。何しろ気味の悪いトカゲがうろうろしている。
-
 パンアメリカン・ハイウェイへ引き返すときからバッテリーが異常だ。朝、ニュートラルランプの光り方が弱くなった。そして、とうとうホーンが鳴らなくなり、フラシュランプも点滅しなくなった。夜中にも放電しているらしい。
-
 バッテリーが空になれば、エンジンはかからない。このバイクはマグネット点火ではない。大きな町へ行っても原因を調べられる専門修理工がいなかった。また、メキシコには同じサイズのバッテリーがなかった。次の国グァテラマへ行けば、新しいバッテリーが手には入りそうだったので、完全に放電してしまわないように夜中に3回ほどエンジンをかけて充電した。
-
 国境まで後500キロ地点に達した夜、エンジンをかける回数を1回減らしたところ、翌朝バッテリーは完全放電して空になっていた。
エンジンはかからない。仕方がないので、道路端にキャンプしていたテントとバイクをそのままにして、バッテリーをもって徒歩で町へ向かった。
-
 途中トラックに乗せてもらって町に着いた。いろいろ考えた末、バッテリー液濃度が下がってしまったのだろうと考え、液を全部入れ替えてみた。たびたびの急激放電のために発熱して、バッテリーケースは変形してしまっていた。3時間ほど充電してバイクの所へ歩いて戻った。その間にも放電してしまうのではないかと心配したが、液を交換したことが成功して、エンジンがかかった。バッテリーが直ったと思えたが、心配だったので、今日中にグァテラマの首都グァテラマまで走り通すことにした。
-
 国境を超えると、すぐに暗くなった。夜9時を過ぎるとガススタンドも閉店になり、ガス欠も心配になった。初めての夜の走行だが、それほど不安はなかった。山の中は真っ暗で、バイクのライトでは不十分だ。ライトに浮かび上がるセンターラインを追いながら進んだ。夜の12時過ぎに、やっと首都グァテラマに到着した。これでバッテリーの心配はなくなった。
- 
 こんな時間に町に到着したのでは寝る場所もない。しかたなく深夜営業のカフェーを見つけて夜を明かす。絶えず、流しの楽団がやってきて、ラテン音楽を演奏する。とても、うとうとできないほど騒がしかったが、楽しい夜だった。
-
 翌朝、バッテリーを手に入れた。グァテラマはバイク天国だった。ものすごい数だ。車がバイクの中を小さくなって走っている。信号機の色が青になると、2.30台のバイクが、まるでレースのスタートのように走り出す。


image282.jpg


-
 中米でのキャンプは楽しかった。ヤシの木があちこちに茂っている。背の低いものが多く。手を伸ばすと取れるものもある。ひと泳ぎしてから、もぎ取ってヤシのジュースを飲むのは最高だった。不純物の多い井戸水なんかもう飲む気がしない。
-
 中米の日本大使館へ、実家からの手紙を受け取りに行った。ちょうど昼飯のために家へ帰ろうとする大使にあった。いいおじちゃんで、私の汚い姿を見て興味を持ったらしい。昼飯でも一緒にどうだと言われてついて行った。
-
 郊外にある素晴らしい家だ。昼飯前に庭にある素敵なプールで、ひと泳ぎする。私は水泳パンツを持っていないので、おじいちゃんのパンツを借りる。
-
 その後、すばらしい昼食をいただいた。大使夫人は正月のお餅を焼いてくださった。食後、日光浴しながら、お茶を飲んでいたが、大使はいつの間にか、うとうとと眠ってしまった。夫人にお礼を言って、こっそりと大使の家を去った。素晴らしいおじいちゃんだった。
-
 その後、私は、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマと調子のよくなったバイクを走らせ、南下した。中央アメリカの道路は、マンホールの蓋がなくなっているところもあり、更に、市内の手前には道路にダンパーが埋められているのです。これは、大きな半球形の障害物で二輪車は普通には越えられません。気が付かずに越えると、間違いなく転倒です。そんなことで、安心できない行程でした。

-
-



共通テーマ:バイク

オートバイの旅日誌(28)Venezuela [4-中・南アメリカ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(28)Venezuela-1977/01/31


image298.jpg


-
1977年になりました。
-
1977/01/31   航空券
-
 パナマ市に到着。まだ、パナマと南米を結ぶ道路はありません。計画があるだけだ。どのようにして南米へ渡るか旅行代理店などを回ってみた。船や飛行機を調べた。


 私はどんなに困っても、ホテルへ行こうなどとは考えもしなくなっていたので、3日間、町の中のガススタンドの裏で寝かせてもらっていた。蚊が多くて困った。
 
 町を動き回っているとき、アラスカから旅の取材旅行をしている東京放送のスタッフにあった。彼らのホテルでコーヒーを飲みながら、久しぶりに日本語楽しんだ。(その後、私は世界各国で彼らと会ったり、同じ町に滞在いしていることを聞いたりした。コースも旅行期間もほぼ同じだったのだ。)
-
 結局、飛行機でベネズエラへ渡ることにした。バイクも箱詰めにして送る。出発の日までパッケージ会社の倉庫の前で寝かせてもらうことにした。その時の私の姿はひどいものだったらしく、倉庫の若者は私に洗面器と石鹸とタオルを渡して、倉庫の横に水道があるから、洗ったらどうだといった。さらに、その会社のTシャツまでプレゼントしてくれた。そんなにひどかったのかな。
-
 出発の日、私もバイクを積んだトラックで飛行場まで運んでもらった。国際カウンターで、ベネズエラからの出国用航空券を持っていないと搭乗させないという。冗談ではない。私はバイクで旅行しているのだから、陸路で出国するのだといても、わかってもらえない。とうとう一番安い国際線の航空券(60ドル)を買わされてしまった。後でわかったことだが、ベネズエラでは、航空券の払い戻しをしてくれないのだ。(詐欺だ。)


venezuela.jpg


-
1977/02/04   司令官
-
 1時間たらずの飛行でベネズエラに到着。飛行場からアメリカで会ったルイスに電話したら、30キロも離れた首都のカラカスから大きなアメリカ車で飛んできてくれた。彼は黒いスーツを着て、美しい奥さんも同伴だ。素晴らしい歓迎だった。だが、私は汚いズボンと上着だ。申し訳ないと思った。その彼の車に乗るのもためらわれた。
- 
 バイクの受け取りは失敗した。翌朝、飛行場の税関倉庫へ行き、バイクの無税通関書類(カルネ)を見せたが、今まで飛行機でバイクを持ち込むものはいなかったのだろう。係員はまったくそのような書類は知らず、いくら説明しても聞こうとしない。オートクラブへ相談してみたが、あまりこじれると受け取れなくなるという。そして輸入税を払ってでも、早く受け取った方がよいというのである。
-
 通関手続きをして、1週間ぐらいバイクの整備をした。南米の旅にスタートした。すでにバイクは4万キロを走っている。あまりにもスペアーパーツが多いので、減らした。まだ交換する必要もなかったが、日本から持ってきていたシリンダーを2つ交換した。同時にピストンリングも交換した。
-
 ガススタンドなどでキャンプしながらマラカイボへ向かった。出発して3日目、ガススタンドの店主が物置で寝ることを勧めたので、好意に甘えて物置で寝ることにした。テントが張れないので物置の壁に荷物を並べて、それを囲むようにして横になった。
-
 そこはドアがなく、24時間営業で、たえず人の出入りがあり、少し不安だったが、眠ってしまった。そして、翌朝、ザックからズームレンズのカメラが消えていた。
-
 盗まれたものが返ってくるはずはないが、一応、村のポリスに報告した。本庁のポリスがやってくるまで待つことになった。村の人たちは非常に同情してくれた。ポリスも非常に親切だった。待っている間、私は村の人たちの家に招待され、食事をいただいたりして、思わぬ村人との交流を持ちことになった。
-
 夕方。本庁から護送車がやってきて、その日の深夜働いていた若者3人を護送していった。私もついて行き、その夜は警察の中で寝た。翌朝、ガススタンドの主人も呼ばれて、取り調べを受けたが、全員釈放された。
-
 犯人は、スタンドで働いていたものと思うが、物置へよく顔を出していた男は来ていなかった。スペイン語が話せない私には、手の打ちようがない。
-
 そのとき以来、私は警察署でキャンプして進むことが多くなった。
-
 南米の人は非常に親切だ。ポリスたちも歓迎してくれた。小さな町では、私が警察へやってきたことを知って、人々が押し掛けてきた。昼間はテントを張ることができないので署内にいると、牢屋の中の連中も私の訪問を大歓迎してくれる。犯罪者の雰囲気はまるでない。金のある連中は食堂から飯を取り寄せているらしく、毎食、食堂の小僧が出入りしていた。優秀な囚人は警察の中を歩きまわており、掃除をしたり、他の囚人の世話をしている。
-
 町の子供が、私の顔を一目見たいと押し寄せるので、私も警察の迷惑になってはいけないと思い、見物人を引き連れて公園へ出かけたりした。もう大騒ぎだ。私も少しばかりスペイン語を覚えたので、いつまでも動物園の檻の中の動物のようにはなってはいられない。私は公園の台の上から、一人一人、指名しては名前や歳を聞いて会話を楽しんだ。何を聞いても、大騒ぎになる。
-
 なかには逃げ出す子供もいるが、私が子供の名前を繰り返すだけで発音がおかしいのだろう、みんなが大笑いする。また、年上に見えるとか、若く見えるなどと言うたびに大騒ぎだ。君はかわいいねなどというと、みんなに冷やかされて、赤くなって逃げ出す娘もいた。若者たちは、指と指を合わせて、好きかと聞いてくる。話をするたびに大笑いする陽気な連中だ。
-
 後で、警察まで食べ物を運んでくれる人もいた。大きな警察では、宿舎の食堂で若いポリスたちと一緒に食べさせてくれるところもあった。
-
 コロンビアの国境の警察の基地を訪ねたときは、その北部一帯の司令官に会い、その人の名刺をもらった。その名刺は、検問で取り調べを受けるときには、絶大な威力を発揮し、取り調べが簡単にすんでしまった。

-



共通テーマ:バイク
前の4件 | - 4-中・南アメリカ ブログトップ