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オートバイの旅日誌(7) カナダ [2-カナダ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(7)-1976/08/24  カナダ


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1976/08/24  大森林
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 24日、カナダに引き返してきた。この前と同じように路面工事をやっている。何度か前輪が横へ流れたが、転ぶこともなく進んだ。夕方5時ごろ、無料のキャンプ場を見つけた。そこでヤマハの650に乗るジョージとその友人で車で旅行しているポールとマゴーに会った。
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 次の日、ジョージは私と一緒にカーフェリーでプリンス・ルパートへ引き返すことにした。フェリー乗り場のあるアラスカ州のヘインズまで約500キロ。道は悪いだろうから、その日のうちに到着できないだろうと思うが、ジョージは今日中にフェリーに乗りたいという。行けるところまで一緒に行こうと走り出したが、砂利道の連続だ。何回も転びそうになったが、なんとか中間地点のヘインズ・ジャンクションに到着。ガソリンを満タンにして休憩。
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 そこからは道が良くなった。砂利道を100キロ前後で南下する。一度後輪がスリップしたが、足で路面を蹴ってバランスを取り戻す。私のバイクは小さいので6速のギアを細かく使い分けるが、ジョージはエンジンが大きいので、ほとんどトップのまま走っている。だから、上り坂になると、シフトダウンが遅れ、非常にスピードが落ちてしまう。
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 そんな砂利道ハイウエイもUSA側に入るとアスファルト舗装に変わった。さらにスピードが上がり、樹林の中を下っていくところでは、オーバースピードになり、カーブが曲がり切れずに反対車線に入ってしまった。そこへ対向車がやって来るのが見えたが、重量がありすぎて元の車線に戻すことができない。相手の方が避けてくれたので衝突を免れた。
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 その後は、慎重にドライブして、簡単な入国検査後、ヘインズの町にたどり着いた。220キロの無補給の走行で、ガス欠になる寸前だった。
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 プリンス・ルパートまでのフェリー料金は大人が31ドルで、バイクは53ドルだった。外で夕食を食べてすぐに乗り込んだ。
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 夜中、船内がそうぞうしくなったので起きたところへ、ジョージがやってきた。アラスカ州都ジュノーに友人がいるので訪ねることにしたのだ。
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 すぐに寝袋をまとめて、バイクのある船底へ行ってみると、まだ朝の4時になったばかりで、乗客はみんな寝不足のようで、髪をぐしゃぐしゃにしてボケーとした顔つきだ。昨夜とりすました美人も、全くひどい姿で、ちょっと愉快だった。
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 5時、フェリーを降り、カフェテリアに入って朝食をとり、夜が明けるのを待った。コーヒーを4杯も飲んで6時ごろ、ジョージの友人の家へ電話したが、知らない家につながてしまった。そこで住所をたよりに、ふたりで家を探すことにした。私はその時までジョージの直接の友人かと思っていたのだが、本当は友達の友達で、直接知らない仲だという。しかもその友人は女性で、前もって連絡もしておらず、今夜一泊させてもらおうという魂胆なのである。
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 彼女の名前は、この前会った女性と同じくマゴーだ。日本語的な発音で果物の名に似ているのですぐ覚えた。マゴーは結婚していたのだが、ちょっと前に離婚したという。非常に感じの良い女性だった。彼女の家はジュノーの高台にあり、一人住みながら、すごく小ぎれいだった。私たちの訪問を予定していたわけでもない。何しろ彼女はガウンを着たままの格好で出てきたぐらいなのに、部屋はきれいに片づいていた。
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 マゴーが仕事へ出かけてから、私は20日ぶりにシャワーを浴びた。すっきりしたところで、荷物のすべてを家に置いて、ジョージと一緒にドライブへ出かけた。あの重い荷物がなくなり,バイクは快調だった。ジョージとまる一日付き合ったので、大概のことは理解できるようになっていたが、私の下手な英語のおかげで、二人とも疲れてしまったようだ。
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 マゴーの家は非常に素敵なのだが、私自身の知り合いでもないので、気が疲れてしまう。彼女がいないときは、少しくつろぐことができるのだが、彼女が帰ってくると、自分の居場所がないという感じだった。そのころにはもう、私にはテントが自分の家となり、テントの中に入るとホッとするし、よく眠れるようになっていた。
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 カナダ、アラスカの自然に関して思うことは、自然が良く保存されているというよりは、まだ手が出せないのだろうという感じだ。町の緑化設備などは、公園を除けばほとんどないのに等しいし、むしろ日本の方が優れていると思われる。それほど、あたりは緑ばかりだ。ここで自然保護というのは、その緑の集まる動物が対象のようだ。
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 植物と人間の戦いは大変だろうと思われた。ハイウエイが大森林の中を走っているため、まわりのブッシュが迫ってきて、元の自然に戻そうとする。そこで人々は、トラックに大きなエンジンの鋸を取り付け、道路沿いに走らせる。迫ってくるブッシュを刈り取っていく。ちょっと放置すれば、ブッシュがハイウエイを覆い尽くすほど自然の勢いは強い。
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 もう一つ人間と自然の闘いを見た。森林の中を走っているとき、えんえんと続く森の中に、突然芝生の一角が現れた。その奥にかわいい家があった。自然の中に人工的な芝生があって、非常に人目を引くものであったが、その家の人の「芝生を持ちたい」という執念を感じた。そして芝生の管理の苦労が想像された。たぶん雑草とのすさまじい闘いだろう。同じ植物でも自然の植生に対して芝生は人間が家畜化した植物なのだから・・
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地図


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1976/08/27  フェリー
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 夜中に目がさめて時計をみたら3時ジャストだ。ジョージを起こしてフェリー乗り場まで行かなくてはならない。バルコニーで寝ていたので部屋のドアを開けると、それに気が付いたのか、ジョージがヤーと声をかけてきた。私が出発だよ、と言って準備をし、4時には家を出ることができた。ジョージは目が覚めていないのか動作がのろい。
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 フェリー乗り場に、ちょうどいい時間に到着して、すぐに乗り込むことができた。私たちは、また寝ることにしたが、ジョージはマゴーのことが好きになってしまったらしく、なかなか船内に入ろうとしない。私に町の明かりがきれいだな、とかボクはマゴーと二度と会えないかもしれないとぽつりと言って、いつまでも町の方を見ていた。ジョージの心は燃えている。船内は暑いといて彼は甲板で寝てしまった。船内でも寒いくらいだったから、甲板は非常に寒かったんじゃないかな。
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 これからカナダ西海岸からケベックの東海岸までドライブしてアメリカに入るのだが、盗難に注意しなくてはならない。特に東海岸の大都市の中を南下するときが怖い。マゴーの家に行く時も、私たちは深夜営業の店に入って朝を待った。店の前にも中にも変な男や十代の男女が群がっている。普通ジョージは、店に入るときはバイクの上にヘルメットや上着を残したままにしているのだが、その時ばかりは、店から見える電話ボックスに行くだけでも、私にバイクを見張ってくれと頼んだ。初めて大都市の中で夜を過ごしたのだが、その怖さをひしひしと感じた。人の多いところは、モーターサイクリストには危険すぎる。
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 先ほど停泊した町はベータースブルグと思われた。フェリーはのろのろと蛇のように島の間を進んでいく。このコースは非常に美しいと聞ていたが、小雨が降り、見通しがきかなくて残念だ。
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 英語の勉強をしているところへ、ひげを生やした優しそうな年輩の男が話しかけてきた。そして「Z」の発音は「ジー」だと注意されてしまった。カナダに住んでいる人だったので、国のことをいろいろ教えてもらい、これから行くプリンス・ルパートの町のことも聞いてみた。
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 その人は世界の道路状況や世界各地の地名に詳しく、夏のホリデーには毎年世界中をドライブしようとしているのが分かった。特に陸続きの南アメリカには行きたいらしく、非常によく知っていた。
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 私の乗っているフェリーは、少しも揺れずに雲が低く立ち込めた海を静かに進んでいった。ただ、すこしエンジンの振動が気になる。

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オートバイの旅日誌(8)カナダ [2-カナダ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(8)-1976/08/28 カナダ


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1976/08/28  ピーナツバター
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 朝4時ごろ船内の照明がつけられて私は目がさめた。5時にプリンス・ジョージに着く予定だから、そろそろ下船の準備をしなくてはならない。寝袋をまとめて船底にある自分のバイクのところまで来てみると、バイクの風防がバラバラになっていた。私は意外と冷静だった。いつも誰かに自分のバイクが狙われていると思っていたからだろう。幸い、一緒に置いてあったヘルメットがあったので、ほっとしたぐらいだ。
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 そこへ係員がやって来て、夜、船がローリングしたために、バイクが横倒しになり、壊れたという。なるほど横の隣の車にぶつかったらしく、少しへこんでいた。その車の持ち主もやってきた。その人とは、昨夜楽しく旅の話をしたばかりで、いやな気分だった。ほかの車が全部上陸してからも私たちは残り、ジョージが私に変わって話し合ってくれた。そして、船長の車の保管に対する責任として、保険請求ができることになり、どこかで同じ部品を買い、その領収書を保険会社へ送ればよいことになった。その保険金はボストンの近くのジョージの家で受け取れるようにした。
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 フェリーから降りて、カナダの出入国管理事務者へ行き、計画書を見せたら、すぐに入国スタンプが押された。そして、「がんばれよ」と励まされた。
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 ジョージはこの港町に滞在するという。アラスカで会ったポールたちは、アラスカハイウエーを引き返して、もうこの町の家に帰っているだろうから、彼らの家に泊まっていくというのだ。私も彼らが帰っていたら一泊していくことにした。
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 朝6時、レストランへ行く。私はこんな早朝からやっている店があるのかと疑っていたが、ジョージは、こっちは何しろ早いのだという。誰が利用するのだと聞いてたら、みんなだと答えた。行ってみたら、なるほど人でいっぱいだった。
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 メニューはコーヒーと定食で、皿の上にホットケーキ3枚、ハムの焼いたものと目玉焼きだけで3ドル25セントもする。高いなと思ったが、ジョージはアラスカより安いと喜んでいた。
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 コーヒーを4杯もお替りして、ポールの家へ行ってみたが、家の前には車がない。まだ、帰っていないようだった。
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 ジョージがバイクの点検にヤマハの店へ行くのでついていく。ジムという日本人2世の店だ。少しでも日本語が話せたのが嬉しかった。バイクのミスファイヤーのことを話したら、2サイクルオイルを使わずに4サイクルオイルを使っているので、そのためにスパークプラグがかぶりやすくなっていて、高回転の時にリークするのではないかという。
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 ジムはファイトの塊のような男で、頼もしく、日系人離れしていた。ジョージがちょっとガソリンを買いに行ったとき、ジムが日本語で「あの外人さん、親切やね」といった言葉が非常に心に残った。2世のジムがそういうぐらい、ジョージは非常に親切な男だった。
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 ジムに急用ができて、私たちは店の前で4時間待つことになった。その間、自分でできる整備をする。ジムが戻ってきて、整備書を見ながらTX650のタペット点検を終えたときは、もう6時になっていた。
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 再びポールの家に家に行ってみたが、やはり戻っていなかった。この時間になってしまっては、もう出発もできないので、ジョージはポールの友人の家に行こうと言い出した。
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 すぐ近くにその家はあった。ジョージが先に入り、私も後ろからついて入る。何が何やらわからないままに紹介され、握手した。その時までジョージが大切に持っていた缶ビールをプレゼントして、家にいる4人と一緒に飲み、さっそく旅行話が始まった。私たちがバイクの上に置いてあるヘルメットを取りに戻ったとき、ジョージに聞いてみた。「誰がポールの友人なの。」「そんなこと知らない。ポールに友人の住所を聞いておいただけなんだ」
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 そして今から泊めてもらえるように話をつけるという。私はあきれてしまった。突然、初対面の人を訪ねて、一泊させてもらおうというのである。


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 ジョージはビールを飲みながら、楽しそうに旅の話をしている。私は、いつ彼が今夜泊めとくれと言い出すのかと待っていた。ジョージは話が上手くてなごやかな雰囲気になっていた。とても初対面のグループとは思えないぐらいだ。そのうちやっと、その家の奥さんらしき人が、今夜泊まるところがあるのとたずねてきた。私にも、はっきりとその英語が聞き取れた。
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 結論として、地下の部屋で寝ても良いから、食事は自分で買って食べること。冷蔵庫の中の飲み物は使わないことで話が付いた。この家の夫婦は、今日は土曜日なので夕食はレストランでとるらしく、出かけて行った。残りの二人の女子は、デンマークから遊びに来ているようだった。
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 私たちはスーパーへ飛んでいき、スープ、シチューと食パンを買ってきた。一人当たりの費用は2ドル50セント。もちろん、明日の朝食用のパン、ソーセージ、卵も含まれている。
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 楽しい食事だった。ワイワイ騒ぎながら久しぶりに腹いっぱい食べた。ジョージはこの旅に出て以来、朝と夜の2食だけらしい。しかし、彼の食べる量はすごい。私の2倍は軽い。彼はピーナツバターの大好きな、本当のアメリカ青年だ。パンと同じ厚さにピーナツバターを塗って、嬉しそうに食べる。
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 食事をしながら、こちらのマナーを教えてもらった。なるほどと思ったのは、家の中では、すべての部屋のドアは、中に人がいない限り開けたままにしておくのだという。ベッドルーム、トイレもそうだ。それが中に人がいるかいないかのサインなのだ。
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1976/08/29  50セント記念硬貨
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 昼ちょっと前に目がさめた。非常によく眠った。フェリーの中ではあまり睡眠が取れなかったためだろう。昼食も自分たちで作るつもりでいたが、奥さんが皆の食事も一緒に作ってくれた。フライパンで作った大きな卵焼きだ。その時もジョージは、ものすごく食べたので、家の人たちはあきれていたかもしれない。
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 食後、皆で日本のことを中心に話した。そこの家の二人は日本を旅行したことがあったので、話題は尽きなかった。世話になった人にあげるプレゼントは全然持ってきていなかったが、木製のポストカードがあったので進呈することにした。それは旅のお守りとして持ってきていたのだが、奥さんは木製のハガキなど初めて見たので、非常に喜んでくれた。
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 私たちは招かざる客だったのだが、非常に楽しく過ごし、気持ちよく出発できた。ご主人から貴重な50セント記念硬貨をプレゼントされた。彼はアジアに対して非常に興味を持っており、その知識も相当なものだった。奥さんは「彼は暇さえあれば、日本やアジアの地図を見てるんですよ」と言って笑っていた。
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 ジョージはイエローロード16号の入り口まで送ってくれた。ボストンに着いたら、彼の家を訪ねることを約束して別れた。彼の最後の言葉は、日本語で「どういたしまして」だった。
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 16号線を走り出した私は、今日の空気は重たいと感じた。そして風防が壊れていたことを思い出した。全身で風を受けるのだから、その風圧は強い。
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 夕方、テラセの町で食料を買い、その町はずれの崖の下でキャンプ。石が転がっており、いつ石が落ちてくるかわからない。エンジンを停めた以上、もう動くのはいやだ。頭のまわりに荷物を並べて安全を確かめて寝てしまった。


オートバイの旅日誌(9) カナダ [2-カナダ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(9)-1976/08/30 カナダ


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1976/08/30  エスキモー
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 朝7時に起きたが、昨日の天気とはうって変わってひどい雨だ。すでにテントの中にも雨水が入り込んでいる。テントから出るのもおっくうだ。
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 ヘルメットのシールドを手で拭きながら雨の中を走る。100キロ以上もガススタンドのないところなので、なかなか休むことができない。18リットル入りの予備タンクを持っていたが、ガソリンは一滴も入っていなかった。ガス欠の心配も出てきた。雨の中を震えながら、やっとヘツッルトンの町の着いた。そこでパンを買うつもりだが、12時から1時まで休みで待たなくてはならない。フェリーで知り合った人が、カサンのインディアン村は素晴らしいと言っていたことを思い出して行ってみることにする。
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 そこは町はずれで、芝生の広場をはさむようにして、7軒の大きな木造の家があった。私が想像していたものとは違っていた。実際に生活している村かと思っていたのだが、ただの観光用だった。各家にはいろいろな生活道具が展示されていた。この村はトーテムポールで名高く、その彫刻は大胆で、大きな刃物一本で彫った感じの力あふれたものだった。
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 この村には村人は住んでおらず、ただひとり、その子孫である男がガイドをしていた。お土産を売っている小屋に入ると、「ヨーゾー」と呼ばれてびっくりした。カナダのキャンプ場で会ったジョージの友人、ポールとマゴーだった。彼らはアラスカハイウエーを通って家に帰る途中だったから、どこかで再開する可能性は十分にあったのだが、彼らも驚いたらしく、話はつきなかった。もちろん、私の英語力に合わせた会話だから、話したいことが山ほどあるのに、なかなか先へ進めず、いらいらする。
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 ポールが入場券を買てくれたので、インディアンの民族ダンスを見ることができた。ポールはここで知り合ったスイス人家族を紹介してくれた。主人は非常に陽気な人で、私の旅行計画を聞くと非常に興味を持てくれて、スイスに来たら家を訪ねるようにと、アドレスを教えてくれた。
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 彼らは一人息子の青年と3人で旅行していた。スイスからバンクーバに着いて、まずキャンピングカーを借りてアラスカへ行き、私と同じようにフェリーでカナダに戻ったところだった。
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 彼らのキャンピングカーの中でコーヒーをごちそうになり、私はポールたちと一緒に出発することにした。スイス人家族は、ここのキャンプ場に泊まるらしい。私たちはお互いの旅の前途を祝福して全員と握手した。ポールの彼女マゴーと握手しようとしたとき、彼女が「ヨーゾー、ナイス。」といって私の胸に飛び込んできた。私はキスされるものと思って、あわてて唇を固く結んだおかげで唇を噛んでしまった。
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 町で食料を購入して一時間ほど走った。町はずれのレストエリアでキャンプする。よく、「キャンプ禁止」なんていう看板があるが、そこにはなかった。高地のため雲が低く、まわりの雲からは雨が幕のように垂れ下がっている。しばらくしたら頭上に来るだろうと思い、急いでテントを張る。ときおり雲が切れて雪の残っている高い山が見える。晴れていたら素晴らしいだろうな。
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 近くのキャンプ場へ水をもらいに行き、そこの管理人の女性に「明日の天気はどうでしょうね」と聞いてみた。「雨でしょうね」と返ってきた。雨といっとおけば、はずれないような返事だった。
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 その夫人は、少しエスキモーの血が混じっているのか、私の顔に似ており、彼女は「あなたは日本人のエスキモーか」とたずねてきた。私は日本にはエスキモーはいないと答えたが、後で「そうです」といえばよかったと思った。その返事を聞いて、彼女ががっかりしていたからだ。
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 テントの戻ってからは忙しかった。ほとんど毎日、雨が降っているので、雨の上がっているときにバイクの整備をしないとやるときがない。暗くなるまでの2時間の間に前後の車輪を外し、ディスクパッドを取り換えた。チェーンの掃除、点火時期の点検もやる。
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 整備を終えたら夕食だ。町で買った缶詰がある。いちばん安い39セントのやつを開けてみると、ラベルとは全く違う・・キャベツの漬物だった。ガッカリ。不運は続くもので、そのエリアは長距離トラックの溜り場になっていた。連中はエンジンを掛けたまま休むので、朝まで排気音とガスに悩まされることになった。
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1976/08/31  歳は60ぐらい
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 7時に起きたが寝不足のために身体がだるく、テントから出る気もしない。
 見慣れた森林景観を眺めながらプリンス・ジョージへ向かう。早くサンフランシスコへ行かなければ、ロッキー山脈で雪に会ってしまいそうだ。
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 道は高原を登ると雲の中に入り、急に寒くなった。丘を登ったり下ったりしているうちに、天気はだんだん良くなっていった。
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 昼過ぎ、ガスを補給したついでに、ミッションオイルの交換をする。日本を出てからすでに9000キロを走っていた。スタンドの子供が、最近小さなバイクを買ってもらったらしく、私のバイクに非常に興味を持ち、いろいろとメカのことを聞いてくる。すぐ親しくなって、私の仕事を手伝ってくれた。彼は私の英語が理解できるらしく、私が彼の父親と話す時は、通訳してくれた。
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 子どもの写真を撮った後、この日の寝場所を探しながら走り、リッターバレルというレストエリアを見つけてキャンプする。テントを張り終えたころ、キャンピングカーがやってきて、その家族の主人と親しくなりる。その人は植物に詳しくて、まわりのブッシュの中から食べられる木の実を教えてくれた。それは、名前は忘れてしまったが、青赤色の小さな実で、そのまま口に含んでも渋くはない。ジャムにすると美味いそうだ。
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 その家族が立ち去ると、今度は森の中から汚い姿をした男がのっそりと現れた。歳は60ぐらい。この歳で、しかも森の中では乞食をするにも大変だろうなと思いながら、何か持っていかれないように警戒した。その老人はバイクのメカに意外と詳しく。そして「俺はホンダのバイクを持っている」という。彼は少し待てくれといて、森の中から360ccのバイクの乗って現れた。泥一つつかず、オイルの汚れもない真新しいバイクだ。よくドライブ旅行しているらしく、すでに1万4千キロを走っていた。バイクが本当に好きな老人なんだろう。ここはテントを張るのには良くないよと言って、そこを出て行った。(この老人は、今の私のようです。)
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 今度は自転車に乗った若者だ。髪が非常に長く、女子かと思っていたら、ホンコンから来た青年で、バンクーバで自転車を購入して,1400キロ先のプリンス・ルパートまで行くところだという。留学のために来たそうだ。
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 自転車はツーリングタイプではなく、ロードレースタイプだ。あの細いタイヤに荷物をいっぱい積んでいるので、自転車がかわいそうなくらいだ。持ち上げてみたら、ずっしりと重かった。
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 彼は非常に喉が渇いていたらしく、水筒の水もなくなり、湖の水を飲みに行ったが、吐き出しながら戻ってきた。この日は私もあまり水を持っていなかったが、夕飯を食べた後だったので、分けてやった。
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 彼の荷物は不要なものが多く、ナタ、空気銃、空のコーラの大瓶2本(水筒代わり)、そして肝心のテントや寝袋はなくて、夜はベンチの下で寝ていたようだ。

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オートバイの旅日誌(10) カナダ [2-カナダ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(10)-1976/09/01 カナダ 


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1976/09/01  エンジンのキー
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 朝から、黒い雲が空を覆っている。ホンコンの若者から粉末の健康薬をもらって走り出す。しばらくすると冷たい雨になった。前進するのがいやになる。トラックとすれ違うときは水しぶきが舞い上がり、前方が全く見えなくなる。
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 プリンス・ジョージに着いてからは、忙しい時を過ごした。ヤマハの店で風防を買って保険金請求書をを作り、保険会社へ送った。以前のものは日本製で2000円の安物だが、今度は15000円の高価なものが付けられた。店の人は親切で、以前の風防の布たれを改造して取り付けてくれた。
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 ヤマハの店は日本のように小さなところではなく、展示場と整備工場が分かれている立派なところだ。しかし、店の看板は小さく、店内にヤマハのポスターが少し張ってある程度だ。また、メカニックも修理屋さんという感じではなく、技師という態度で余裕をもって仕事をしている。しかし、仕事のスピードが遅いのには閉口した。
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 町を離れる時も雨は降り続いていた。雨の中を走るのはいやだが、町の中にいては、寝る場所がないので飛び出した。身体が冷たくなり、もう走るのが嫌だと思ったころ、レストエリアが見つかった。雨の中のテント張りも難儀なものだ。もう何もかも濡れてしまている。
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 テントを張っていると若い男女が徒歩でやってきた。傘も持たずに、こんな寂しいところで何をしていたのだろう。早口の英語で話かけてきた。エンジンのキーを車の中に忘れて困っているらしいので、針金をわたしてやったら、しばらくして車に乗って戻ってきた。針金の太さがちょうどよくて、ドアの間からドアロックを外したそうだ。彼らは喜んで、一緒にビールを飲もうやと出してくれた。生ぬるかったが、とてもうまかった。私は、この日、水の補給を忘れて喉がカラカラだったからだ。
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 彼らが立ち去ってからも、水が欲しかったので、雨で濁った川の水を飲んでみた。その味は、民家でもらう水と同じだった。カナダやアラスカの水は飲んでも良いと聞いていたから、町はずれに住んでいる人たちは川の水を使ているんだろう。
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1976/09/01   無料キャンプ場
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 あと120キロでカナディアンロッキー山脈の国際観光都市ジャスパーだ。素晴らしい景観を期待して急いでいると、前方に雄大な岩山が現れた。雨雲が低く取り巻いているため、山の下半分しか見えないが、切り立った岩肌に雪の張り付いた姿が私を立ち留まらせた。こんな所にこんな素晴らしい山があるなんて・・・みんな知っているのかな。マウント・ロブソン12920フィート。
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 ジャスパーの町に入ってしまうと、寝る場所に困るので道路わきでキャンプする。排気音のせいか、夜中に何回も目がさめ、夜明けが待ち遠しかった。だんだん日が短くなったようだ。
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 いまやっとカナディアンロッキー越えつつあるが、この山脈を超えるまで寒さがついて回ることになりそうだ。夜明けとともに起きて、前の川で洗濯をするつもりであったが、雨が降ってきたので、テントの中で雨合羽と革靴の修理をする。
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 雨上がりの山の中は寒い。この日も切り立った山が続く。やはり上半分は雲の中で、天まで届いているようだ。いつか登ってみたい。
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 イエローヘード峠(5760フィート)を超えるとアルバータ州だ。その標高の写真を撮りたいと思うのだが、寒くてバイクを停める気分にもなれない。さらに先に行くと、ジャスパー国立公園の検問所があり、入園許可書を渡される。
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 ジャスパーに到着。ガスの補給と食料の購入をする。観光と登山の基地らしく、ザックを背負った若者が多かった。
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 コーヒーでも飲んで身体を温めたいと思うが、私を入れてくれそうなカフェーはない。すべてレストランと看板を掲げており、白いテーブルクロスが掛けられ、どのテーブルにもカップ、フォーク、ナイフが並べられている。この町は私とは相性が悪そうだ。
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 カナダやアメリカでは、ガススタンドに無料の地図を置いているので、訪ねてみたら、60セントだという。それじゃ水の補給をしようと思ってたずねたら、他のスタンドへ行けよと言われてしまった。アメリカには変な意味のサンキューがある。そんな相手の言動に対しても、こちらは、よく私の言葉に対して返事をしてくれましたね。と紳士的にサンキューという。そう言ってそこを出ようとしたら、トイレで水を入れろと言ってくれた。
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 やっと客が大勢いるカフェテリアを見つけたので、ここなら大丈夫と思って入っていったところ、どうもよそよそしい。私が「カフェー・プリーズ」いうまで誰も来ない。隣の席の人にはお替りしても私には無視だ。トイレで鏡を見た。髪はくしゃくしゃ、ほこりだらけで髪の毛のツヤなどない。顔は真っ黒でところどころに黒いオイルがついている。我ながらものすごい顔で、敬遠されるのも無理はない。
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 この店は自体は、あまりいい感じではなかったが、サイモンとガーファンクルの曲が流れていて、私の気持ちを和らげてくれた。
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 町を飛び出し、昼ごろ、川岸でパンをかじる。初めてマーガリンをつけてみた。1ポンド(454グラム)で59セントの安いやつだ。
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 素晴らしい景観が続いた。ちょっと走っては写真を撮るので、距離は全く伸びなかった。それほど素晴らしかったのである。
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 しかし、公園内なのでレストエリアにはキャンプ禁止とあるし、キャンプ場は有料とあって困った。探しながら進んでいると、一か所だけ、管理小屋も料金表もおいていないキャンプ場があった。3時前で少し早いがキャンプすることにした。
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 公園内を少しうろついた後、バイクの整備をする。プラグのかぶりが激しかったので、オイルポンプを調整してオイルの出る量を減らした。万一焼き付いたら困るが、メインジェットといじる前にこれをやってみたかった。
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 荷物を調べてみると、全部の物が濡れており、特にバイクのスペアパーツが錆びてしまっていた。ベアリング類はサンドペーパーで削ってオイルを塗る。持ち歩くだけで大変な量があるのに、品質の管理まで気を使わなくてはならないとは思わなかった。
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 ここは無料キャンプ場と思っていたのに、暗くなってから集金人がやってきて、3ドルを取られてしまった。眠ってしまうまで3ドルのことが頭から離れない。一日の食事代より高いのだ。もう決してキャンプ場には足を向けないぞと決心する。この国に無料のものなんてあるはずがないのだ。(チクショウ。)

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