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オートバイの旅(47)Spain [6-ヨーロッパ・中近東]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(47)Spain-1978/06/08


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1978/06/08   3000ドル
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 モロッコのスペイン領セウタからフェリーボートに乗る。まだ旅行シーズン前で乗客は半分くらいだ。スペインの入国は簡単に済んだ。足は直ったが、右手首はまだ痛い。
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 地中海沿岸に沿って走ることにする。別荘地や観光地が続き、おまけに雨の日も多くて、キャンプできる場所を探すのに骨を折った。
 何しろ、残金は3000ドル以下で、いくら計算してもオーストラリアまでの交通費しかない。とても有料キャンプ場などには行けない。
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 ヨーロッパ・・・ここでは旅行は生活の一部で、他人の旅行に対しては興味を示さない。北アフリカのように、ガソリンスタンドで係員が話しかけてくることはない。すこし、スペイン語を知っているのだが、ほとんど言葉を交わさない。言葉を忘れてしまいそうだ。ストアへ食料を買いに行っても、ただ、無言のまま金を払い、品物を受け取るだけだ。非常に寂しい。
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 首都マドリッドでは、アフリカのセネガルで会ったマイセルを訪ねた。歓迎してくれた。嬉しかった。彼もバイクでサハラ縦断を試みたが、途中で挫折してトラックに積んで越えてきた。
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 彼の家で1週間以上も世話になり、マドリッドの生活を楽しんむことができた。


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1978/06/22   パリ祭
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 ポルトガルに入国。スペインより素朴で親しみを感じさせる国だ。国のいたるところに松林があり、キャンプも容易だ。
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1978/06/30
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 小さな小さなアンドラ国。どんなに素敵な国だろうと期待して、雨の中を走って行ったのだが、観光客がいっぱいで、高級品店がずらりと並んだつまらない町だった。
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 げんなりして、そのまま走り抜け、その日の内にフランス国境を越えた。峠にはまだ残雪があり、非常に寒かった。キャンプできるところはなかなか見つからず、更に雨が降り出した。
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 パリに到着したときも雨だった。
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 アルジェリアで入院中にディスクが錆びてしまっていた。雨の中では全くブレーキが利かなくなってしまった。おそるおそる走る。あちこち走るうちに迷子になってしまい、どこにいるのか分からない。
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 交差点で、困っていると後ろの車から「ヨーゾー」と声を掛けられた。アフリカで会ったエリックだった。彼もバイク野郎で、サハラ越えを失敗している。
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  彼は、ずぶ濡れの私をカフェへ連れていき、ご馳走してくれた。両親が旅行へ出ていたので、泊めてもらうことになり、郊外の素敵な家に案内された。
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 スランスでは、後半の旅行にそなえて、バイクの大修理をやった。クランクシャフト、シリンダー、フロントフォークチューブ、リアクッションなどの交換だ。
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 ちょうどパリ祭の最中で、エリックは私を車に乗せて、パリのにぎやかなところへ連れて行ってくれた。エッフェル塔にも行ったが、登るお金がもったいないので、眺めるだけにした。ノートルダム寺院は素晴らしかった。花火大会と広場での演奏とダンスは非常に楽しかった。
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 もっと楽しかったのは、エリックの友達と会う時で、相手が女性だと、必ず両頬に2回ずつキスをした。素敵な娘がいた。ダンスもした。


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1978/07/20   ご馳走
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 フランスからイギリスに渡るのに約30ドルかかった。ロンドンでも、アメリカ旅行中にあった青年の家を訪ねた。1週間ほど厄介になり、バイクの整備をした。修理する箇所は際限がないぐらいだ。
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 スコットランドの北の端まで足を延ばした。ツンドラ地帯で、たえずカスミがかかっていた。海は荒れていた。とても寒かった。
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 ロンドンに戻り、今度はエリックの友人の家に泊めてもらた。結婚早々のカップルだったが、心から歓迎してくれた。彼女の最善のご馳走をたっぷりいただいた。食後にシェリー酒をいただき、私の胃袋はびっくり仰天。トイレへ飛び込んだ。みんな出してしまった。また、やってしまいました。私の胃袋は、パンだけでよいのです。少し、マーガリンがあればもう最高です。
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 いったんフランスに戻り、すぐにベルギー、オランダ、ドイツ、デンマークを経由して北欧へ向かった。
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 北欧ではさらに住民の感じは変わった。ほとんど言葉を交わすことがない。セルフサービスのガススタンドとスーパーマーケットに立ち寄るけれど、言葉を交わす機会がない。何かを訪ねても、英語を知らない人たちだから、ただ、黙って顔をそむけるだけだ。人がいるのに砂漠の中を旅しているようなさびしさを感じた。
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1978/08/29   台所
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 雨が降り続くフィンランドを北上して、ノルウエイに入る。
 北海を求めて、岬に出た。そこにあった漁港はひっそりと静まり、箱型の家が色鮮やかに美しく立ち並んでいた。荒い北海に面した道路は、波しぶきがぶち当たり、霧が陸に上がったり、海に戻ったりを繰り返していた。幻想的だ。この日の北海でのキャンプは、忘れられない。
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 ノルウエイを南下する途中、ヤマハYDS-3に乗った若者にあった。私が乗っているRD250の初期のモデルだ。ヤマハ仲間の気分で、すぐに親しくなり、家に招待された。きれいな家で、きれいな奥さんもいた。私は着替えのズボンもない。旅の姿のままで、革ズボンをはいたままだ。家が汚れそう。
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 彼はヘリコプターのパイロットで、ドイツ人の奥さんは「この人の話は、バイクとヘリコプターのことばかりよ。」とこぼしていた。
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 彼のバイクはエンジンが不調だった。滞在を少し延ばして修理してあげることにした。シリンダーヘッドのプラグ穴がつぶれていたが、それはまだ使えた。大きな原因はハイテンションコードが緩んで錆びていた。修理が完了すると、買った時よりもパワーが出たといって、大喜びしてくれた。
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 オランダのヤマハの作業場で、浅見貞男選手に会う。バイクの整備をしていた1週間の間、毎晩、彼の手料理をご馳走になった。以前にラーメン屋でアルバイトをしていたというから、味噌ラーメンの味は最高だった。
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 彼は1台の大きな車に3台のレーシングマシンを積んで、二人のメカニックとともにヨーロッパ中のレースを転戦しているサムライだ。
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 ヨーロッパでは、テントを張れる空地を見つけるのが大変だったが、ドイツだけは、いたるところに森があり、夜になっても、どこでキャンプするかなどと心配しなくても良かった。ただ、雨の日が多いのが悩みだった。
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 スイスでは、2年前にカナダの旅をしているときに会った老婦人を訪問した。あの時は、いつでも来てくれ、2.3日は滞在してくれと言われたが、台所に通され、1杯のコーヒーをご馳走になっただけで、部屋がないから泊めてあげられないと、やんわり断られた。考えてみると、私がスイスに到着したときの姿は、髪はぐしゃぐしゃで、顔はほこりとオイルで汚れ、着ているものはボロボロで、その衣類はオイルと泥がこびりついていた。悪臭もしたと思う。泊めてもらおうとした方がおかしいのだ。
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 私は、予定が外れてしまって困ったけど、部屋が汚れてしまうと夫人が心配したのも仕方がない。私を家の中に入れてくれただけでもありがたい。


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オートバイの旅(48)Yugoslavia [6-ヨーロッパ・中近東]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(48)Yugoslavia-1978/10/11


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1978/10/11   夜間学校
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 そろそろヨーロッパアルプスに雪が降るのではないかと心配して出発した。天気が予想外に良くて、思っていたよりもあっさりと峠を越えてしまった。同じスイス国内でも、アルプスの南側はまるでイタリアのようだった。アルプスを下るにつれ、また暖かくなった。
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 イタリアに入ってからは、物価が安くなったので、大きくて旨そうなソーセージをたっぷりと買い込み、昼飯時間が待ちきれなくて、道路端でパンと一緒にかぶりついた。
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 イタリアでは、ベネチアまで行ってみたが、観光地や名所は自分には関係がないと考え、素通りした。私の旅は名所を見て回るほど余裕はない。
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 早く、中近東へ行き、自由にキャンプしながら気ままに進みたい。ヨーロッパでは、自分の姿があまりにも汚いので、買い物するときも人の目を意識し、カフェなどには自由に入ることもできない。ヨーロッパの旅を続けるのが嫌になっていた。
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 ユーゴスラビアに入ると、町には国旗が掲げられ、労働者をたたえるような歌やマーチが流れており、社会主義国らしさをひしひしと感じた。でも若者たちは、はつらつとして明るく、私が想像していた社会主義国のイメージとは違っていた。
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 アフリカのカメルーンで知り合ったトモ君を訪ねた。彼の下宿に泊まったり、友人の大学の寮を泊まり歩いた。たくさんの学生たちと友人になった。みんないい若者たちだ。チトーを尊敬しており、自分の国の社会主義のあり方に自信を持っていた。彼らは小遣いを出し合って、町のレストランへ連れて行ってくれた。
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 ギリシャへ向かう途中、雨が降り続いた。道路わきの林の中でキャンプしながら雨が降りやむのを待っていた。道路の反対側に住む青年がやってきて、全く言葉が通じないのだが、うちへ来ないかという。あまり裕福でない農家だったが、温かい雰囲気の家庭だった。


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 顎の張った頑丈そうな母親と二人の息子、そして夫人に頭の上がらない人の好さそうなご主人の4人家族だった。
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 ほとんど言葉が通じないのに青年とは気が合って、5日間も滞在してしまった。そのミルティ青年の上衣とズボンと靴を借りて、毎日、町へ遊びに出かけた。ミルティは、女子を眺めて歩くのが好きな青年で、毎日が楽しくて仕方がないという感じだった。
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 夕食のときなど、私がひとり増えたので、皿が1枚足りなくなり、そのとばっちりを受けたのが親父さんで、ナベを皿代わりにして、食べていた。いい親父さんだった。
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 ユーゴスラビアのコーヒーの飲み方はちょっと変わっている。まず、非常に甘い砂糖漬けのフルーツとコップ1パイの水を出される。あまりにも甘いから、どうしても水が欲しくなる。その水で口の中を整える。つまり日本の茶道に似ている。それが終わってから、やっとコーヒーが出される。豆のカスがいっぱいのトルコ風のコーヒーだ。これはカスがカプの底に沈殿してから飲む。飲み終わった後は、そこにカスのたまったカップを受け皿にひっくり返しておく。しばらくしてカップに付着したカスをはがして食べたり、その付着の状態から自分の運勢を占う。
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 ミルティ青年が夜間学校へ行くので、私も付いて行った。教室は男より女の子が多く、どっちを向いても女の子だらけで、まばゆいばかり、授業前にミルティ青年は、教壇に上がって私を紹介した。すぐに仲間入りして、女の子からキャンディなどをもらう。
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 まず、物理の教授が現れ、ミルティが先生に私のことを伝えて、授業が始まった。60人くらいの学生は、みんな静かに聞いている。原子構造の話で、私も高校生の頃を思い出して、聞いていた。
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 1時間の授業が終わって、タバコタイム。男も女も一斉に教室の外でタバコを吸い始める。ユーゴスラビアでは、英語を話せる人がほとんどいない。学校ではロシア語を主にドイツ語、フランス語を教えていた。そんなことで誰も英語が話せないだろうと思っていたら、一人の女子学生が話しかけてくれた。親がイギリス人だということで、この学校のことをいろいろと教えてくれた。こちらの女性は、どいうわけかヒゲが濃い。少し変装すれば、すぐに男になれそう。その女性にもヒゲがあった。
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 その後の授業は政治と社会学だった。マルクス、エンゲルス、レーニン、毛沢東などの人物が次々登場した。
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 授業が終わった後、その先生の独演が始まり、学生たちはワイワイと騒いだ。
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 ミルティは有名な暴れん坊らしく、そのヒゲの女性は「オー。あのバカの家に泊まっているの。?」と大げさに驚いて見せた。なるほど、ミルティは活発で、授業中にもしばしば口を入れていた。


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1978/10/26   アクロポリス
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 ギリシャに入った。オリンポスの山のふもとで冷たい雨になった。雨の中を畑の中でキャンプした。翌朝、目を覚ますと、オリンポス山の上まで、真っ白になっていた。冬がどんどん近づいているようだ。早く、トルコ、イランを通過しなくてはならない。
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 ギリシャでは、アクロポリスを見つけた。町中のアクロポリスの遺跡は、あまり感動的ではなかった。
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1978/11/06   ロウソク
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 ギリシャ最後の町で、残りの金をすべて使い切った。ガソリン、パン、タバコ、ソーセージ、それにトイレットペーパーなどを大量に買い込んだ。イスラム系の国では、まず手に入らないと思った。
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 トルコ国境へ向かう。この日も北から冷たい風が吹いていた。高い山では雪が降っているはずだ。強い風にあおられて、フラフラしながら走った。
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 ギリシャ、トルコに出入国手続きは簡単に終わった。トルコでは税関がうるさいだろうと思っていたのだが、意外だった。もうヨーロッパとはお別れだ。中近東の国々は、かなり印象が違うだろうと想像して入国したが、トルコの景観はギリシャと同じようなものだった。アメリカとメキシコ国境のような変化はなかった。
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 100キロほど行くと町があった。別に買うものはなかったが、トルコの町の様子を見るつもりで、町に入った。ロウソクを暖房用に買う。町は静かなもので、予想以上に小ぎれいだった。ここはまだ小さいアジアなのだ。
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 また、少し走って、ガス補給。非常に安かった。35セントだ。50セントはするだろうと思って、両替をしていたのだ。また、トルコの金があまりそうなので心配になる。そのスタンドの店員たちは、ちょうど昼食中で、パンにオリーブの実と塩辛いチーズを食べていた。私も誘われて、ご馳走になる。もうすでに店内にはストーブが燃えていた。
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 トルコも森がない。今夜はどこで寝たらよいのだ。キャンプできそうなところを物色しながら走る。やっとちっぽけな松林を見つけたので、ここを逃したらもう無理だと思って、早めのキャンプをした。
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 だんだん夜明けが遅くなった。確かに東へ向かっていると実感する。
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 イスタンブールは大きな町だった。イラク領事館へ行ってみたが、ビザはもらえそうもなかった。シリア、イラクへ行くのはあきらめる。
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 町で買い物をして、アンカラへ向かた。ポラリス海峡の釣り橋を渡ると、もうアジアだ。ヨーロッパ側のトルコはギリシャより立派な家が建っていた。アジアトルコを走る。町中にイスラム寺院が目立つ。町は中近東らしく、だんだんにぎやかになり、いたるところで露天市が開かれていた。町には、工場地帯も広がり、なかなかキャンプ場所が見つからない。


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オートバイの旅(49)Torkey [6-ヨーロッパ・中近東]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(49)Torkey-1978/11/08


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1978/11/08        イラン国境
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 朝、8時になって、やっと明るくなった。朝からアンカラへ向かう幹線道路は車でいっぱいだ。アダパザンの大きな町で買い物をする。オリーブの漬物がフランスパンによく合うので買ってみた。100グラム、10円ぐらいだ。アルジェリアの病院ではほとんど食べなかたが、だんだんとその味が分かってきた。砂糖とマーガリン、タバコを買ったが、わずか1ドルちょっとだった。
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 10時過ぎに町を離れて、アンカラへ向かった。だんだん山道となり、低地では、ほとんど樹木を見なかったが、山が深くなると意外と樹木がある。松もよく見た。しかし、寒い。そんな寒い峠の頂上で昼食にする。オリーブの漬物とまだ少し温かいパンだ。水なしでもどんどん食べられた。オリーブの実は黒いが、梅干しのような感じだ。その渋みと塩加減がうまかった。ギリシャ、トルコの食料品店には、漬物がたくさん並んでいる。
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 ガイドブックの写真などで、トルコは暑い国だという先入観を抱いていたが、冬のトルコは寒い。遠くの山の頂は、すでに雪をかぶっている。
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 夜中に目が覚めた。足が冷たくて、眠れなくなった。テントの内側の薄っすらと氷が張っている。もちろん水筒の水は凍っていた。
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 アンカラでもイラク大使館へ行き、再度ビザのことを聞いてみた。やはり、1か月以上は待たなくてはいけないと言われ諦めた。
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 アンカラでは、樹木というものがなくなってしまった。緩やかな起伏が続くが、その景観は砂漠と変わらない。小さな町でも砂ほこりが舞い上がっていた。
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 次の町で買い物をしたら、パンクしてしまった。町の中だから、子供がぞろぞろ群がってくる。見世物だ。やがて大人も集まってきた。なんとか修理して、タバコを一服する。子供はよく観察しているのだ。あんな安物のタバコを吸っていると誰となく告げたのだろう。一人の青年が「これ吸いなよ。」と高そうなタバコを勧めてくれた。
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 写真を撮ってやろうとしたら、大騒ぎになり、バイクが見えなくなるぐらいに、ぎっしりと並んでしまった。


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 それから100キロばかり進んで、幹線道路から逸れたところでキャンプした。しばらくすると牧童がやってきて、まずタバコをくれという。もちろんやらない。そのうち私の荷物を物色し始めた。そして、ザックにぶら下げてあった小さなカウベルを見つけた。ひどく気に入ったらしい。今度は、その牧童の父親らしい男が現れて、そのベルをくれという。もうそのしつこいことに飽きれた。くれくれと迫るのだ。そのうち、テントに火をつけてもよいのかとその真似をして脅すのだ。私も腹が立たので、とうとうその親父の胸蔵をつかんで、怒鳴ってしまった。欲しくなったものは、どうやっても手に入れるだ、という考えにぞっとした。
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 翌朝、凍ったテントを片づけていると、一人の男が汗をかきながら飛んできた。なぜだか分からないが怒鳴っている。言葉が通じないので適当にやり合っていると、また別の二人の男がやってきたて、3人でわめき始めた。この近くで、羊かなんかの家畜が殺されたらしい。ついて来いという。その羊飼いの馬鹿どもは羊が殺されて、誰でもよいから犯人を仕立てたいらしい。たまたま、私が近くでキャンプしていたものだから、私を犯人にした。その現場を見せて白状させるつもりらしい。私が羊1頭を殺して、焼いて食べたとでもいうのか。
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 「よし、ついて行ってやろうじゃないか。」といって一歩踏み出すと、私の顔つきに驚いたのか、。「もういい。行って良い」という仕草をする。何が行って良いだと、最初の男に詰め寄ると、やはり羊飼いだ。すぐに石をつかむ。腹が立って仕方がなかったので、胸蔵をつかむと3人がかりで私を押し倒そうとする。3人を相手に喧嘩をする自信はなかったが、私が180センチ以上の大男で、汚い革ジャンパーを着ているので、彼らはにらむだけで、それ以上は手を出さなかった。
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 それにしても恐ろしい。もし、私がか弱い男だったら、半殺しになっていただろう。昔の閉鎖された田舎では、こんなふうにして、よそ者が殺されたのではないか。彼らは自分たちの村の人間など疑う前に、よそ者を疑う。たぶん羊を殺したのは隣近所の連中に決まっているはずだ。・・牧童の民の野蛮さを思い知らされた。
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 次の日もパンクにあってしまった。シバスの町では、バイクで旅行中のドイツ人の青年に助けを求められた。彼はエンジンがかからなくて困っていた。引っ張てやるとエンジンはかかるが、キックだけではだめだった。彼は予定が同じなら、一緒に行かないかという。また、安いホテルを知っているけど、一緒にどうだという。困っている若者をそのままにもできないので、しばらく行動を共にすることにした。
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 エンジンをかけるたびに、私のバイクで引っ張るのだ。私は、彼に同情して行動を共にするのだが、彼はそう思っていないらしい。たまたま私が同じコースなので、引っ張てくれていると思っているのだ。そんなことで、私はだんだん彼の態度が気にいらなくなった。
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 2000メートルを超す峠を3つも越えなくてはならない。雪と寒さが心配だった。霜で山々は真白になっていた。あまりの寒さに写真撮影もできない。


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 ドイツ青年マリは、オイル缶を落としたまま走っていったり、ガス欠になって私の予備ガソリンをやるなど、少々世話のやける道ずれだった。アスファルト舗装では、私は80キロのスピードで走るのだが、彼は飛ばしてどんどん先へ行った。そして、先の食堂で飯を食っている彼を見つけては、引っ張てエンジンをかけてやりながら進む始末だ。しかも、彼は悪路では極端にスピードが落ちた。たびたび私は、彼が追いついてくるのを待ってやった。彼が転倒したりしてエンジンを止めてしまったら、彼は困るだろうと思ったからだ。
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 2つの峠を越えて、良い道になったところで、ドイツ青年はどんどん先へ行ってしまた。私を待っているようなことはない。3回続けてパンクしたときは夕方になっていたので、そこでキャンプしてしまおうと思った。しかし、彼が心配するだろうし、私がいなくてはエンジンが掛けられないだろうと思って、薄暗くなった山中でパンクを直し先へ急いだ。いくら行っても彼の姿が見当たらない。予定のエルツルムの町の入り口に着いても彼がいない。彼に自分の気持ちが全く通じていないのにがっかりした。
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 もう夜も迫って、キャンプ場所を見つけるのも大変なので、町へ入った。ホテルの若者たちは、大歓迎してくれた。バイクを中庭に置くように勧め、すぐにストーブの火を強くしてくれた。そして、温かいミルクティーと彼らが食べていた食事を私に勧めてくれた。嬉しかった。
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 もう、マリ青年のことは忘れることにしようと思っていたところに、前の通りを聞き覚えのある独特の排気音が通過していくのを聞いたので、すぐに飛び出した。私がいなくては彼はエンジンをかけられないのだ。ホテルへ連れていくと、若者たちは彼を歓迎してくれた。
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 私たちの部屋に若者たちが遊びに来た。私はみんなでおしゃべりしようと思っていたのに、しばらくするとマリは、ここは俺たちの部屋だから、もう出て行ってくれと追い出してしまった。
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 翌朝、ホテルの若者たちは朝食を用意してくれた。マリも喜んで食べていたが、別にそれほど感謝しているふうでもない。出してくれたから食べてやっていると感じだ。彼は旅で知り合った者にいくら親切を受けても、その人たちの住所録を待たないという。見上げたものだ。私はホテルの若者からイスラム教の珠数をもらい、住所を交換し合って出発した。
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 山道にかかると、悪いガキどもが石や棒を持って待っていた。車やバイクに石をぶつけるのだ。マリは以前、この道を通ったことがあり、その時は窓ガラスをガキどもが投げた石で割られてしまったという。その時にガキどもを追いかけて捕まえたところ、村人に取り囲まれて、怖い思いをしたという。まるで無法地帯だ。ただ村の子供や村人を追い回す奴は、敵なんだ。
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 マリ青年の利己主義と行動はさらに目立ち、私はイラン国境を前にして、これ以上一緒に行動するのは嫌になっていた。一緒に走っているのに、彼はさっさと先へ行ってしまい、イラン国境に着いた時には彼の姿は見えなかった。すでに入国してしまったのかと思っていると、どこからか現れた。
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 その時、イランは革命が勃発して不安定だったが、幸い、私たちは時期がよくて、暴動も一段落していて国境は開いていた。入国手続きを終えたとき、すでに3時過ぎだった。彼は200キロ先のタブリッツの町まで行こうという。私は自分のペースを守るために、このマクの町に滞在することにしたが、彼は先へ行くというので、私たちは別れた。私はほっとした。肩の荷を下ろした気分だ。彼はトルコで私を捕まえたように、次の町でもすぐに別のバイク野郎を見つけられると考えたのかもしれない。
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 暗くなってから、ここの谷間の町に横殴りの雪が降り注いだ。彼は、ちゃんとタブリッツの町にたどり着いたのだろかと心配になった。
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 次の朝、町は雪で覆われていた。私は両足を出してノロノロ進んだ。タブリッツの100キロ手前でマリ青年を見つけた。雪の積もった道路端で、彼は牽引用の細いひもを持って震えながら立っていた。その姿は哀れだった。やはり昨夜の雪で進めなくなり、雪の中でキャンプしたという。もう一度、引っ張ってエンジンをかけてやる。
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 雪が降り続き、彼は遅れに遅れた。私は町に入ったところで待っていたが、いっこうにやってこない。エンジンが止まって困っているのではないかと心配になり、引き返した。なんと彼は町の入り口の食堂で、何かを懸命に食べているではないか。雪の吹き溜りを超えて、その店に入ると、彼は「パキスタンまで車で行く連中と親しくなったから、バイクも運んでもらうよ。」と私の心配をよそに、そんなことを言ってくれた。
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 もう、嫌だ。すぐに店を出て、一人で雪の降る道を出発した。あんな奴がバイク仲間だと思うと腹が立つ。
 (マリ青年はバイク野郎ではないのです。ただ、インドやパキスタンへイギリス製バイクを持ち込めば、おんぼろでも高く売れるという動機で、バイクに乗ていたのです。)
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 先の峠では雪のために車がスリップして進めず、仕方なく、引き返してホテルに入った。
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 翌朝は、雪がタイヤと泥除けの間に詰まって凍ってしまっていた。それを溶かして出発する。峠は、やはり車でごった返していた。その間を縫って、峠を越えた。
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 その雪も首都テヘランまで来るとなくなった。


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 テヘラン市内の交通渋滞は、日本どころではなかった。文字通り交通地獄で、バイクでさえ前へ進めなかった。ホテルに着いた私は、多くの韓国の人たちと知り合った。南部の石油基地から逃げてきた人たちだ。イランの暴動が完全な外人排斥運動になり、宿舎などに投石されて逃げてきたという。
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 一応、暴動は納まっていたが、市内のあちこちの銀行や劇場が焼かれていたのを見た。広場には戦車が横たわり、ガススタンドの屋根の上には機関銃が並んでいた。そのスタンドで、また、バイクが故障してしまった。私は機関銃が気になって。落ち着いて修理もできなかった。
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 ホテルにはイタリアのバイク野郎が泊まっていた。イタリア製のモトグッチに乗っていたが、ここまでの雪道で苦労したらしい。もう雪道を走るには御免だといい、この先のアフガニスタンは更に雪が深いからバイクを税関に置いていくと言っていた。しかし、それは考えものだ。こんな治安の不安定な国では、いくら国の機関である税関といっても、信用できるわけがない。ないよと言われたらそれきりだ。
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 私も雪が心配だったので、南部の砂漠地帯を通ってパキスタンへ直接入国するつもりだ。そのルートを彼に教えたが、悪路を行くのも嫌だというのでは仕方がない。そして2週間後にイラン政府は転覆した。彼のバイクはどうなった?。


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