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オートバイの旅日誌 「 玉井洋造の旅 目次」 [目 次]

●●● 目次 (玉井洋造の旅1976) 日誌 ●●●

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オートバイの旅日誌(1)アラスカハイウエー(canada) [1-アラスカハイウエー]


オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(1)-1976/08/02 アラスカハイウエー(canada)


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1976/08/02  東京の下宿


 出発の前日は、東京の下宿で寝た。4畳半の部屋の家具類は、大阪の実家に送り返してある。何もない部屋は、夏なのに寒々としていた。畳には陽光に焼けた跡が残っている。旅のザックだけが部屋の隅にごろりと横たわっていた。
 窓をあけたまま、畳の上に大の字になって寝た。畳から8年間の東京での青春が匂ってきた。この旅のために、何もかも投げ捨てた。会社も7か月前にやめていた。その準備中のことを思い出しながら眠ってしまった。
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1976/08/03  テントの長さは


 1976年8月3日の夕方、友人と駅前の食堂でカレー丼を食べた。この旅へ出る日本での最後のめしだ。自分ひとりの旅にふさわしいと思った。こっそりと日本を出たい。しかし、空港には多くの先輩や同僚たちが見送りに来てくれた。結婚して一年目の女性の先輩に「タマイちゃん、タマイちゃん。頑張ってね」とキーキー声をかけられ、苦しい旅へ出ようとしているボクの意気込みを足払いしてしまった。「タマイちゃん」じゃ恥ずかしくなってしまう。
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 東京からサンフランシスコへ飛ぶ。自分の隣には、かわいい女の子がふたりいて、楽しい旅の始まりだったが、機内はエンジンの音がうるさくて、一睡もできなかった。
 シスコでカナダのバンクーバー行きの飛行機に乗り換える。いちばん最後に降りたものだから、2時間半の乗り継ぎ時間は、たちまち過ぎ去り、空港係員に付き添われて廊下を走った。荷物検査もそこそこに飛び乗った。やれやれと思っているうちに、バンクーバーに到着。たくさんの計画書を見せて、2か月半の滞在許可をもらった。外へ飛び出すと、すでに11時半。空港の待合室で寝ようか。ホテルを探すにもまったく見当もつかない。今日は特別だと、タクシーで安ホテルへ連れて行ってもらった。
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 バンクーバー市内は、高層ビルが立ち並んでいた。ちょうど出勤時間。人々は忙しく行ったり来たりしている。そんな人たちに混じって、20キロのザックを背に船会社を探した。ザックの中はバイクの部品ばかりで、シリンダーも2つ入っていた。信号待ちしているのが苦しいぐらいの重さだ。こんなにすごい荷物で、バイクは大丈夫かなと不安になる。なにしろ、わずか250ccのバイクだ。
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 港の税関倉庫で書類をそろえ、バイクの受け取りの成功。倉庫の前で梱包の木枠を分解する。そこで働いている人たちが大きな斧などを使って手伝ってくれた。きのうは旅の足であるバイクがなくて、寂しかったが、もう嬉しくて、無我夢中でバイクを箱から取り出した。バイクには一滴のガソリンの入っていない。倉庫の人たちは、手伝ってくれたばかりか、ガソリンまでくれた。代金を払おうとしても受け取らないのである。
 バイクにすべての荷物が、なんとか乗っかった。自分のすわるスペースはほとんどない。ガソリンタンクの上に半分乗っかる格好だ。
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 バンクーバー市内を走りだす。右側通行だ。注意して走った。そんなことが、いっそう外国を走っているという気分にさせる。ビルの谷間を縫って、きょろきょろしながら進んだ。
 バンクーバーで日本人の家庭に3日間滞在し、市内のあちこちを走り回った。時どき左折の時に左車線に入ってしまい、前方から車が来るのでびっくりした。ガソリンスタンドはセルフサービスというのもあって、どうやってよいものか分からず困ってしまった。
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 アラスカへ旅立つ日の朝、バイクが盗まれてしまった。(ああ、旅はもう一巻の終わりか。)
 なんてことだ。市内はどこを走っても美しく、良い町だった。住宅地は整然としていて、きれいな前庭が続き、とても泥棒なんていそうにない。バイクの鍵を掛けることもなく、家の前の道路に放置したまま寝てしまった。そしてアラスカへ向かって出発する日の朝、バイクがなかった。まったく恥ずかしい話だ。
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 ラッキーにも、泥棒さんは子供だったらしく、裏の通りに転がされていた。たぶん重たくて、それ以上押していけなかったのだろう。サイドミラーがもぎ取られていたが、バイクを取り戻すことができて、息を吹き返した。
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 そんな事件があって、出発は昼になった。市内を通り抜け、アラスカハイウエーへ向かった。道はすぐ砂利道になった。車とすれ違う時、お互いに100キロ以上のスピードだ。石が跳ね上がり、ビシッと風防に当たって丸い穴があく(おそろしい)。時には手の指に当たり、顔を歪める。それ以来、車とすれ違うたびに顔を反対側に向け、一瞬目をつぶってしまう習性が身についた。
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 カナダの風景は、やはり広大だ。広角レンズがなくては、全然カメラの中に納まらない。えんえんと続く樹林の中を走り進む。3日目、やっと晴天になった。昨日までは朝と夜が雨で困ってしまった。テントの長さは180センチ、ボクの身長は182センチ。足がテントから出てしまって、寝袋の足のほうはびしょ濡れだ。
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 旅が始まったばかりで、キャンプは道路わきでやっていたが、食事はレストランに入った。毎日、朝夜ともミルクとハンバーガーだ。でも予定の1日500円じゃ何も食えない。一日3ドルぐらい使っている感じだ。新聞では、日本が一番物価高であるといっていたが、日本ではラーメンやヤキソバが300円ぐらいで十分に食えたのに、こっちはハンバーガー1個だ。
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 4日目、装備のまずさが表面に出てきた。砂利道のため、バイクの両サイドのザック袋がすれて穴があく。そしてブーツも縫い目の糸が切れてガタガタになった。ガムテープで修理する。



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オートバイの旅日誌(2) アラスカハイウエー(canada) [1-アラスカハイウエー]


オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌



(2)-1976/08/10 アラスカハイウエー(canada)


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1976/08/10  北極圏
  
 ドウソンクリークからアラスカハイウエーに入った。ジェットコースターのようにダート道が樹林の中を突き進む。道幅は広くてよいのだが、道路工事をしていて、水をまいたり、ブルドーザで路面を削ったりしていて、おまけに削った土砂を、また路面に撒くものだから、表面はフワフワになっていた。四輪車はいいかもしれないが、こちらは石は飛んでくるし、ハンドルは取られて転ぶし、大変なハイウェイだった。雨が降った後は、その土砂がつるつる滑って、何度も転倒することになった。
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 しばらくひどい道が続いた。穴ばかりで後ろから車が80キロ以上のスピードで追いかけてくる。追い越されると石を飛ばしてぶつけられるので、同じスピードで逃げる。
 途中、道路工事があって、車が5台ほど停まっていた。自分もその後ろに並ぼうとして転倒、膝を痛めてしまった。前のキャンピングカーの青年が大丈夫かと聞くので、「ヘルプミー」と叫んだ。3人がバイクを起こすが、荷物が満載だ。そう簡単には起きてくれない。
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 山中をジェットコースターのように走っていると、道路わきのレストランに3台のバイクを見つけた。アメリカの青年たちで、こちらから「ヤー」といって、仲間入りする。彼らは、ミネソタ州で働いていて、アラスカのフェアバンクスまで行くという。そしてまた同じ道を引き返して、アメリカ西海岸を通り、家に帰るそうだ。3人とも大きなバイクで、荷物は少ない。砂利道を恐れもしないで飛ばしていく。100キロ以上のスピードだから、ついて行くのが大変だ。途中、私のバイクの風防に、また石が当たり大破。
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 フォトネルソンのガススタンドで、これから先の橋は夜の2時まで通行禁止だと聞いて、彼らはその町で滞在するという。彼らと別れて、私は橋の手前の村まで行くことにした。その村は地図にサミットレイクと書かれているが、ただガススタンドが一軒あるだけだった。その店のカフェーでハンバーガーを食べて、横の空き地にテントを張って寝ることにした。この日の走行距離は420キロ。疲れた。
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 陽はなかなか落ちない。もう北極圏に近いのだ。眠れなくて何度も寝返りをうつ。夜10時頃になってやっと暗くなり、朝5時にはもう明るくなっていた。小鳥のさえずりを楽しみ、タバコを一服してからテントを片づける。
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 チェーンの給油、ポイントの点検をして8時にはワトソンレイクへ向かって出発。アラスカハイウエーの森林の景観は、あまりにも単調にえんえんと続き、飽きてしまった。泥とほこりをかぶって走り抜ける。車が跳ね飛ばす石が手足に当たるのに慣れてしまった。この道の往復を終えたら、すぐにでもモトクロスレースに参加できそうだ。しかし、帰りも同じ道を走ることを思うとガックリする。
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 アラスカハイウエーに入ると、ガソリンスタンドの数も少ないので、見つけるたびに補給する。北上するごとにガスの価格は上がり、設備も悪くなり、小屋の前にポンプが並んでいる程度だ。
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 一部だけ舗装のしたカーブで、バスが傾いて停まっていた。後輪の片方を何所かで失くし、車軸がアスファルトに食い込んでいる。ボルトが全部緩んでしまったらしい。乗客は道路わきに座り込んで、私が通過していくのをただ見守っているだけだった。
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 5時ごろ、ユーコン州のワトソンレイクに着き、ガスを入れ、夕食をとった。銀行も郵便局もある村だが、寝る場所が決まらない。村を離れてしまうと、寝る場所を見つけるのが大変なので、村のはずれの道路わきでキャンプする。人に見つからないように、林の陰にテントを張り終え、その日の日誌を書いていると、テントに石が当たり、子供の声が聞こえてきた。怒鳴りながらテントから出てみると、そろそろ分別のつきそうな14,5歳の女の子がリーダー格で、6人ばかりの子供が石を握っている。そんな子供たちを見て悲しい気持ちになった。一人を捕まえて日本語で叱りつける。生意気そうな子供は「英語、話せないの?」と不思議そうな顔でこちらを見る。みんなを家に追い返した。



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オートバイの旅日誌(3)アラスカハイウエー(canada) [1-アラスカハイウエー]


オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(3)-1976/08/13 アラスカハイウエー(canada)


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1976/08/13  コーヒー


 朝、走り出してすぐ雨が降り始めた。道路の表面は水でぬるぬるしており、たびたび前輪が横へ滑走して冷や汗をかく。タイヤもエンジンも泥まみれだ。滑りやすいところは両足を出して進む。約60キロのスピードで上り坂を走っているとき、水をふくんだ土砂を踏んでしまい、とうとう転倒。バイクの排気パイプに足をはさまれてしまった。
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 一人では起き上がれない。ガソリンも流れ始めた。パイプの熱も伝わり始めたので、荷物を外そうともがいていたら、車の近づく音がして、二人の男に助けられた。二度三度転んだ末、やっと坂の上までバイクを押し上げてバイクの点検をする。エンジンのガードパイプが折れ曲がっただけで、ブレーキレバーは折れていなかった。取り付けを極端に緩めておいたのが良かったようだ。私自身は皮ズボンを着ていたので、膝を少し擦りむいた程度だが、雨合羽が使えないぐらい裂けてしまった。この日は250キロの走行で、ホワイトホースの手前でキャンプする。
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 次に日は、昨日とはがらりと変わって、路面は固く、スピードがどんどん上がって100キロ前後になる。そいう所に限って事故車がある。ボンネットと屋根が押しつぶされ、ぺちゃんこになっている。
 丘を越えると、また路面工事だ。散水車が水をたっぷりと撒き、ブルドーザがせっせと路面をかき混ぜ、泥道になっていた。両足を出して慎重に進んだが、たちまち転倒してしまった。
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 やはり自分でバイクを起こせる重量にしなくては、とても南米からアフリカへ行けないだろう。今回の損害は、左側のガードパイプが曲がり、足のつま先が当たってチェンジ操作が不可能だ。足で蹴っとばして、足が入るようにした。
 工事箇所を抜け出し、アラスカ州へ流れていくユーコン川を渡り、ホワイトホースから100キロ先の村でキャンプする。
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 夕方、その近くの家の人が私のテントを見つけ、お茶を飲みに来るようにと誘ってくれた。森の中の小さな木造の家だった。主人は非常に訛りのある英語を話し、ひげは伸ばし放題、山男みたいだが,優しい人だった。夫人は、やや冷たい感じだが、ゆっくりときれいな英語で話してくれた。私たち3人の会話を、4歳になる男の子が黙って聞いている。楽しくて2時間も話してしまった。カナダに日本製品が多いこと。カナダの冬のこと、両国の物価高のついては興味深い話ができた。
 次の日の朝、起きて出発の準備をしていると、家の人がコーヒーを飲まないかとまた誘ってくれた。その家のあるヘインズ・ジャンクションからは、雪をかぶったセント・エラス山脈が望まれた。
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 いい天気になったが、少し寒い。ガソリンの補給をしたついでに、カフェーに入った。1杯をコーヒーを飲みながら日誌を書いていると、女主人は頃合いをみては、お替りをしてくれた。計4杯。コーヒーだけで腹がいっぱいになった。その後は遠慮した。もちろん代金は1杯分だ。しかし、いつもこうはいかない。私の姿もだんだん汚れてきて、店に入るやいなや、ザックをドアの外へ置けといわれ、まずいコーヒーを飲むこともしばしばであった。コーヒーしか飲まない人はあまりいないのだ。
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 昼から雨が降ってきた。また、転倒するかもしれないと、ハンドルグリップを強く握ってしまう。泥を浴びたチェーンは伸びるのが非常に早い。歯車をかんで、いやな音がする。
 この日の宿泊地はカナダ最後の町ビーバークリークだ。税関とモーテルがあるだけだ。ガススタンドの横の空き地でキャンプする。
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