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オートバイの旅日誌(34)Nigeria [5-アフリカ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(34)Nigeria-1977/08/27


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1977/08/27   橋と曲がり角
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 トーゴからベニンへ向かう。ベニンの国境事務所は異様な雰囲気だった。2日間滞在のビザを取っていたが、軍人の入国審査官は、パスポートを見ただけで「だめだ。引き返せ。」というのだ。国境には軍人があふれ、住民はおどおどしながら入出国手続きをしている。もちろん、私はそう簡単にはあきらめない。そこの親分らしき男に面会を求め、ちゃんとガーナでビザを取得してきたのだと説明して、やっとのことで、ノンストップでナイジェリアへ向かうことを条件に24時間以内の滞在が許された。
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 トーゴの青年がいった言葉が思い出された。ベニン、ナイジェリアの奴らは気が狂っている。私はその言葉の意味が少しずつ分かってきた。軍人支配の国家で軍がのさばっている。・・恐ろしい空気を感じた。その後、町に入るたびに軍人につかまった。別に面倒なことにはならなかったが、まったく大変な国だ。強制されなくても、今日中にこの国から抜け出そうと思った。
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 町の中を通りたくなかったが、道路が町の中に入るたびに道が分からなくなり、うろうろしているうちに、軍人やポリスに捕まってしまうのだ。
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 その日のうちにナイジェリアに到着してほっとした。銀行はすでに終わっていたので、商店で両替してもらった。正式レートの2倍だ。
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 ナイジェリアへ入国手続きを終えたときは、すでに暗くなっていて、キャンプできそうな場所を探せないので、警察署の中庭でキャンプさせてもらう。
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 首都ラゴスでは、ビザの取得と簡単なバイクの整備をした。アフリカでは、私が使っているヤマハRD250のパーツを手に入れることは不可能だ。しかし、ナイジェリアは、金まわりの良い国で、中型バイクが走っている。ヤマハRD200、ホンダCD175が多くみられる。自動車やバイクが非常に普及していて、道路の舗装も良いようだ。しかし、十分なガソリンがないのだ。そのうえ交通ルールはないのと同じで、市内でも郊外でも事故車がそこらじゅうに転がっている。
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 日本大使館のある市の中心地からホテルに帰る間だけで5件以上の事故を目撃した。交差点でのバイクの炎上、持ち主らしい男が必死に砂をかけていた。そして次の交差点ではトレーラー車とバスが側面接触、バスは前輪がもぎ取られて前へつんのめっていた。お次は自動車専用道路でのことで、バスとトラックの接触、乗用車の炎上。ガソリンタンカーと小型トラックの追突、もうめちゃくちゃだ。渋滞して前へ進めないので、バイクは歩道の上を走ったり、植え込みの中に入ったりしている。
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 事故車をそのまま放置してあるため、車がつかえてしまうのだ。それを避けようとした車が後ろも見ずに大きくハンドルを切るので、接触、追突、炎上・・・もう日本以上に救いようのない交通地獄だ。バスなどは後ろを見るにもサイドミラーがないので、ボディーは傷だらけ。
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 ポリスと軍人のバイクが交差点で衝突。お互いに「バイクを起こせ。」と叫び、大喧嘩が始まった。そんな男たちが交差点に立って、交通誘導をしているのだ。だから交差点の混乱は更にひどくなる。停まった方がよいのか進んでよいのかどうもわからない。私たちがそのまま停車して、誘導を待っていると、車のボディを鞭のようなもので叩いて、なぜ早くいかないのだと怒鳴りつけるのだ。
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 3日後にこの町から逃げ出したが、郊外へ行っても、事故の数は減らなかった。とくに、橋と曲がり角には、事故車がごろごろ放置されている。
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 カメルーンの国境の手前の町アバカリキでは、病院の庭でキャンプさせてもらった。暗くなるまで日記などを書いて夕食のパンを食べていると、「パンしかないの?」と声を掛けられた。彼女は病院の責任者でバイクをもっと安全な場所へ移動させ、これを食べなさいと魚の缶詰と缶切りを持ってきた。とても親切な人で、夜になってからもテントまで紅茶を運んでくれた。


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1977/09/05   国境でキャンプ
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 イコムから90キロほど道を間違えた。もう一度イコムへ引き返し、カメルーンへの道をたどる。とてもひどい道で、これが本当にカメルーンへの道かと不安になった。村人に会うたびに道を確かめて進んだ。一度、転んだだけでカメルーン国境に到着する。
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 大きな川が国境で、釣り橋が架かっていた。出入国手続は簡単に終わる。3時を過ぎていたので、次の町までは無理だろうと考え、国境でキャンプ。飯屋で客の一人にビールをおごってもらう。そして、彼からこの先の道が非常に悪いことを知らされた。
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1977/09/06   まだ30キロ
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 7時半出発。マンフェまで75キロ、いくら道が悪くても午前中には着くだろうと思った。ところが出発してすぐ、とんでもない箇所にぶつかった。登り坂の路面が2メートも落ち込んでいる。しかも、すごいぬかるみだ。バイクを絶対停めてはいけないぞと、自分に言い聞かせて突っ込む。しかし、やはり登り切れずに、斜面の途中で止まってしまった。ずるずると後退し始める。最後には全く動けなくなった。とても一人では登れそうにない。雨は降り続いていた。疲れて休んでいると、エンジンの音が聞こえ、丘の上からバイクがやってきた。近くの住民らしい。その若者は、エンジンを止めて降りてきてくれた。二人でバイクの荷物を全部おろし、斜面の泥を削て再度アタックする。一度エンジンは止まってしまったが、なんとか押し上げた。二人とも泥まみれになってしまった。
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 次は、その若者のバイクをおろす番だ。いくら悪い道でも下り坂は楽だった。そこから先も登り坂のたびに苦労することになった。小型トラックの運ちゃんや小型バスの乗客たちに助けられたり、助けたりしながら前進した。小雨が降り続いていたので、休む所もない。全身がだるく、もう疲労の極限まできていた。1時を過ぎたが、まだ30キロしか進んでいなかった。
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 村があるたびに、コーラを見つけて飲んだ。喉からは苦い胃液が上がってきて苦しい。泥のためにブレーキはきかない。靴の中は泥でいっぱいだ。
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 マンフェの1キロ手前で村の学校を見つけた。キャンプすることにした。村といっても家は10軒ぐらいしかない。その一軒で魚の缶詰と小さなビスケットを買う。捨てようと思っていた古いパンを残しておいてよかった。村人に聞くと、この先にまだ上り坂のぬかるみがあるという。今日はもう、これだけで結構だ。約7時間でわずか60キロしか進んでいない。村の青年によると、私の行動は非常に速いという。バスなどは3.4日はかかるそうだ。子供たちに手伝ってもらって、大きな水たまりの中でバイクを洗う。恐ろしいほど、泥が吐き出された。
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 その後、雨は毎日降り続いたが、マンフェの町からは道も平坦になり、なんとかドゥアラに着くことができた。


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