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オートバイの旅日誌(19) USA [3-USA]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(19)-1976/10/11 USA


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1976/10/11    小さな郵便局
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 一気にアーカンソー州のリトルロックまでやってきた。だんだん暖かくなる。この後、オクラホマ州、テキサス州、ニューメキシコ州と進むにつれ、天気が良くなり、暑くなる。寒いより暑い方がよい。
 地図を見るとあちこちに公園やピクニックエリアがある。今日は簡単に寝場所が見つかりそうだ。
 ハイウェイを走る車もほとんどない。起伏の激しい道を飛ばしていると、少しへこんだ反対車線のところにポリスカーが駐車していた。その前を100キロ以上で通過していく。バックミラーをのぞいたら、車は砂ほこりをあげて、Uターンし、追っかけてくる。ポリスカーは、私がすぐにスピードを落としたので、追い越してそのまま行ってしまった。(助かった。)
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 良いキャンプ地が見つかった。湖畔のピクニックエリアで、誰もいない。キャンプ禁止の立て札もない。素晴らしい場所だ。
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 夜は非常に静かだ。あまりにも静かすぎて、紅葉した葉の落ちる音に驚く。空き缶の中に落としたタバコの吸い殻がコーンと大きな音をたてて響く。
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 100キロの距離を1時間半ぐらいかけて、オクラホマにはいった。
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 ブロッケンボーンの町で日誌をフィルムを実家へ送ることにした。小さな郵便局へ持っていくと、男はそこにあるテープで巻けという。巻いて持っていくと、今度は税関申告書を書けという。
 申告するようなものはないというのに書けという。<たくさんの手紙と使用フィルム>と書いた。価格のところは何も書かなかった。男はしつこく値段はいくらだと聞く。
 私は手紙とフィルムだけだと言い張った。男は勝手にフィルム1ドルと書いた。それから手紙はいくらだという。私は「手紙だよ。値段なんかないよ。」という。男は勝手にしろとこちらに投げた。私は彼の方へ押し返すと、男は1ドルだという。私もやけくそになって、「そうだよ。」と怒鳴る。
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 彼は、用紙のすべてを記入しなくてはいられない男なのだろう。ゼロ以上の数字でなくてはいけない。だから、1ドルだ。料金も3ドル80セントで、今までより非常に高い料金だった。たぶん地球を一周してから日本へ着くのだろう。
 (その後、実家から私のところへ来た手紙には、日本の税関で課税されたことが書かれていた。)
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1976/10/13    ガラスの割れた窓
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 靄が幾筋にもなって漂っている牧草地を進むのは快適だ。
 アドモアの町を過ぎると、赤い地肌が見える。やがて放牧地になった。牧草以外は育たないような土地だ。茶色の牛がまばらに草を食べている。そんな牧場の中に油田ポンプのヤグラがあちこちに見える。やっぱりオクラホマだ。
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 グランドフィールドの小さな町でガスを補給する。2つあるスタンドアイランドのうち、1つは「セルフサービス」とある。店員がいれるのか、自分で入れるかの違いだ。
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 ダビッドソンの小さな町からレッドリバーを渡り、テキサス州にはいった。クロウェルの町を過ぎると、あの西部の大平原が現れた。枯れ草が点々と生えているだけだ。低い山が遠くの方にかすかに見える。半砂漠の世界だ。
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 レストエリアでキャンプすることにしたが、昼過ぎの太陽はまだ非常に厳しく、日陰を求めてキャンプするようになった。
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 チェーンが非常に痛んだので交換。エンジン側の歯車も緩んでいた。2リットルの水が残り少なくなっていたので、近くの農場へ行ってみた。誰もいない。他に2軒ほど回ってみたが、捨てられた農場だった。ガラスの割れた窓、はがれた板壁、錆びた農機具に、この土地の厳しさを知った。


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1976/10/13   荒野
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 7時になってもまだ真っ暗だ。本当に夜明けが遅くなった。ここから20キロ先のニューメキシコ州にはいれば、マウンテンタイムになり、1時間遅くなる。
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 日本から非常にたくさんのパーツを持ってきていたが、チェーンを新しいものに取り換えて以来、これからの旅先での必要になるパーツが心配になってきた。予想以上にパーツが必要になりそうだ。アメリカを出てから、ヨーロッパに着くまでパーツの補給ができないと考えた方がよい。例外としてベネズエラでは補給できそうだが、非常に高いらしい。
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 これから先の行程は、旅費の問題ではなくて、どれだけパーツを持っていくかだ。必要なパーツがなくなった時が旅の終わりだ。消耗パーツをどんなふうにして補給するかだ。タイヤ、チェーン、歯車は1万5千キロでだめになる。だから、チェーンが伸びないようにと、90キロ以下のスピードを保ち、ローギアでは回転を上げないように努めた。
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 ロスウェルの町まで荒野を進んだ。この町を過ぎてルイドンへの道は、谷の中を登っていった。禿山が続くが、谷の中だけは果樹の緑で覆われていた。リンゴを売る店が並んでいる。禿山の続く中に自然林が一部残されていて国立公園になっている。松の木が茂っているのが不思議な感じだ。
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 この禿山地帯に入ってから、民家の構造や素材が変わってきた。北東部アメリカの板壁に家が、ここではレンガと土の壁だ。形も非常に単純で、長方形で切妻屋根だ。色も白一色。北東部のように赤、黄色、白色などで塗った色鮮やかな家はない。
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 生活が裕福でないことは、ガススタンドでもわかる。ポンプが非常に古く、手動ポンプであることもあった。
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1976/10/16   入場料
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 ホワイトサンド自然公園へ行く。白い砂の砂漠が広がる。入場料が1ドルもしたので入らなかった。私にとって地球全体が公園のようなものだ。わざわざ点のような小さな公園・・・柵の中にはいる必要はない。


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1976/10/17   ニューメキシコ州
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 昨夜はシーズンオフで無料になったキャンプ場でテントを張った。そして、今朝、トイレへ行ったところ、その中にシャワー室があったので、ためしにコックをひねったら、熱い湯が出るではないか。朝風呂を浴びて、いい気分で出発する。
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 北部を旅行していた連中が、南へ下ってきたらしく、バイクの旅行者たちとよく出会うようになった。
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 シルバーシティを過ぎ、大きな銅の露天掘りの現場を見ながら、ロッキー山脈を超えて行った。素晴らしい景色だ。日本的なきめの細かい美しさではなくて、けた違いのスケールの大きな美しさだ。
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 ほとんどが半砂漠の乾燥した土地のニューメキシコ州では、樹木のあるところは森林公園になっていた。

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オートバイの旅日誌(20) USA [3-USA]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(20)-1976/10/18 USA


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1976/10/18           ハイウェイ60号線
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 真っ赤な夜明けの空を見ながらロッキー山脈を上り下りする。バイクは非常に好調になった。6速のギアーでどんどん登っていく。コーヒーを飲もうと思うが、どの店も窓が小さい。店の中からバイクの見張りができそうにない。
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 ある店に入った。コーヒーの味もメキシコ風になって強い。暑さに勝つために必要なのだろうか。あるいは水は悪いのかもしれない。出された水はすごい味がした。
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 ここアリゾナも、あまり裕福ではないらしい。モービルハウスという家が非常に普及している。トレーラ式のキャンピングカーの超大型で、いわば車輪のついている家だ。町の周囲にはその家の村がある。そこはキャンプ場で、土地付きの家が持てない人達が住んでいるのだ。そういうキャンプピングカーの中で生まれ、育つ子供も増えているようだ。なかには一生を車の中で過ごす人もいるのかもしれない。
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 グローベの町からフェニックスまでUSハイウェイ60号線を下っていく。赤い岩に切り立った崖や地底旅行をするような奇怪な風景が次々と現れる。大きなサボテンも出現し始めた。カナダの森林地帯を思い出すと、まるでウソのように景観ががらりと変わった。
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 フェニックスでは、大学の先輩の家に滞在する。きれいなアパートで、私が触るものすべてが汚れてしまいそうだ。汚い私の荷物など置くところがない。
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1976/10/19    先輩の家
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 先輩の家に3日ほど滞在することにして、バイクの整備をする。9時から3時ごろまで、アパートの人たちと話しながらピストン、リング、ベアリングの交換をする。
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 夜は、このアパートの共同施設を見て回った。プールが2か所と、ジェットノズルから空気を噴き出している温水プールもあった。さらにビリヤード2台と卓球台もある。そして床に寝そべってテレビを見る部屋があった。


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1976/10/20    天気予報
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 これから先の連絡方法、フィルムや手紙の輸送方法、パーツの補給の方法を考えた。ミッションオイルの交換、クラッチ版の点検をする。整備計画書通りに4万キロ時点の整備をした。
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 荷物の量を減らしたいが、今の時点では、まだ何も捨てる勇気がない。しかし、このままでは南米やアフリカの旅はできそうにない。捨てるとすれば、スペアーの手袋、雨合羽、フィルム、薬、地図、ガイドブックぐらいだ。
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 スペアーパーツは登山用のザックに詰めて背負っていたが、あまりにも重かったので、糸が切れてしまった。釣り糸で修理する。
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 夜、テレビの天気予報は、明日から天気がくずれることを報じていた。北から冷たい高気圧が南下して、アメリカ全土を覆いつくしている。北部では雪が降り出し、5大湖周辺はマイナス気温になったという。アリゾナ周辺以外の地域は、最低気温がすべてマイナスになった。


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1976/10/21    作業用チョッキ 
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 天気予報とおり、雨が降り出して寒くなった。出発を一日延長する。
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 手紙を書き、ビザの取得計画を考え、パーツのチェックリストを作る。走行中の旅の安全を考えて、スーパーで反射テープ付きの道路作業用チョッキを買う。バイクの後ろに貼り付けて、後方の車が確認しやすいようにした。
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1976/10/22    雨合羽の修理
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 先輩は8時前に仕事へ出かけて行った。私も9時には部屋を片づけて出発。実家から送られてきた荷物が増えて、バイクはずっしりと重い。これから先の旅の長さを感じる。フェニックスを離れると、すぐに雨が降り始め、気温も急激に下がった。
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 17号線を北上して、オークキャニオンへ行ってみる。大自然の浸食作用による、想像を絶する造形に目を見張った。
 フラグスタッフの町を通過して、その先のカイバブ湖キャンプ場へ行ってみると、その上空だけに雨雲があり、雨の中でテントを張ることになった。バイクの整備を中止して、テントの中でズボンと雨合羽の修理をする。
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1976/10/23    グランドキャニオン
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 雨の中をグランドキャニオンに向かった。64号線を北上する。大平原をバイクは好調に走った。
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 グランドキャニオン村に着くと、雨がやんで陽が照り始める。その村のガススタンドはセルフサービスで、トイレも水も有料だった。
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 女主人は親切だった。私が店の横で休んでいると、トイレの合鍵をわざわざ持ってきて手渡した。私の汚い顔を見かねて、洗えと言っているようだった。横のレストランで雨合羽を着たまま日誌を書きだしたが、靴が濡れているので、寒さのため足がガタガタ震えた。
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 公園を歩いていくと、道路の真中にゲートがあり、入園料2ドルを取られた。(あーあーもったいない。)しばらく進むとキャニオンのリム(縁)の見晴らし台に着いた。パーキング場は、どこから集まってきたのか、キャンピングカーでいっぱいだ。キャニオンの北側は雪がちらついているのに、驚くぐらいの旅行者の数だ。
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 リムに沿って西側の道路の端まで行ってみる。のぞき見台があり、いろいろな角度から谷の内側をのぞくことができる。ニューメキシコ、アリゾナの大きな荒野の自然を見てきた私にとっては、それほど感動的なものではなかった。できれば、もっと自然な形で見たかった。入園料を払って展望台からのぞくなんて、どこかおかしい。
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 アメリカの大陸の美しさは、複雑な構成のものではなく、単純な構成の美しさであり、規模の大きさによる驚異の美しさのようだ。
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1976/10/24
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 朝の気温はマイナス2度。東へ向いて進むので、朝日がまぶしい。大平原を進むと、ハイウェイに沿って並ぶ掘っ立て小屋でインディアの子供たちがヘアベルトやネックレスを売っている。一本も樹木のない土地だ。彼らの家はハイウェイからは見当たらない。
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 アリゾナ州道264号線を走りながら、映画「バニッシングポイント」の舞台を思い出す。そんな感じの土地だ。大平原に突然上り坂が現れる。
登り切るとまた、遮るものがない地平線が続く。断層を超えたのだ。
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 セカンドメサという小さな村の店で、背後から「バイクの調子はどうですか。」と突然声を掛けられた。インディアンの研究をしているという日本人だった。その周辺のインディアンの部落を教えられ、ぜひ行くようにと勧められた。そのあたりも、また一本の樹木もないところだ。
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 ケーンズキャンプの町に3時前に到着して、町はずれにある無料キャンプ場を見つけた。昔からのインディアンの町らしく、谷の中にあった。日本の谷とは違って、大平原にできた谷だ。ものすごく広いもので、その中に小さな川が流れている

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オートバイの旅日誌(21)USA [3-USA]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(21)USA-1976/10/26


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1976/10/26   パンク修理
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 朝5時に起きて、キャンプ場内の公衆電話から日本の実家へ電話をする。
 コインを入れずにダイヤルのゼロを回すと、町のオペレーターが出る。そして州都のデンバーの電話局につながる。そこから東京につながる。そして大阪の実家につながる仕組みだ。日本の交換手が私の名前とコレクトコールであることを確かめる。その時の交換手の日本語は美しかった。3分以内に電話を切るつもりだったので、伝えることを要約していたのだが、話が始まると、家族全員が出て、5分以上になってしまった。
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 アリゾナ州は牛や馬が多い。柵がないので、よくハイウェイの上をうろついている。US160号線を進んでいるとき、足をしばられた馬がハイウェイの上で立ち止まっている。ホーンを鳴らしても足を見ているだけだ。さらに近づくと、あわてて、うさぎ跳びのような格好で逃げて行った。
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 もっと怖いのが牛だ。鈍いのか、近眼なのか、バイクが近づいても気づくのが遅い。そして、びっくりして、それぞれ勝手な方向へ逃げまどう。ばかなやつは、バイクに向かって突進してくる。
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 アリゾナ、ニューメキシコ、コロラド、ユタ州が交わるポイントに向かっているとき、舗装工事現場にぶつかった。アスファルトが跳ねて閉口する。後輪が左右によろめく。パンクだ。下り坂でのパンク修理はやりにくい。その横を工事のダンプトラックが行ったり来たりする。原因はコーラの蓋のリングだった。修理に1時間もかかってしまった。
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 アメリカも南部まで来ると、ロードサイドはゴミでいっぱいだ。ハイウェイに沿って缶やビンが切れ目なく転がっている。


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1976/10/27     奇怪な岩肌
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 朝の寒さは、ますます厳しくなった。50キロも進むと、手足が痛くて我慢できない。羽毛の手袋も限界で、寒さに勝てず親指が痛む。足をエンジンケースに置いてみた。少しは熱が伝わってくるようだ。あごも風が当たりキリキリ痛む。足が千切れそうになって、こらえきれずにカフェーに飛び込む。
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 ユタ州にあるレッドキャニオンは、名前のとおり、道路も崖も真っ赤だった。まだ、キャンプするには早いので、プライスキャニオンへ行く。標高3000メートルのレインボウポイントでは、風化によってできた奇怪な岩肌が見られた。人間が無数に立っているように見える。


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1976/10/29    セルフサービス
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 今朝はさらに寒い。寒暖計はマイナス10度を示していた。昨夜は登山用靴下2枚、パッチ、皮ズボン、オーバーズボン、上は肌着、登山用シャツ、セーター、ヤッケ、革ジャンパー、雨合羽2枚を着て、寝袋の中で寝たので凍え死ぬことはなかった。
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 US89号線を30分も南下すると、足の指の感覚がなくなった。カフェーに飛び込み、コーヒーを注文する。足が震え、手の感覚もおかしいので、カップが上手く持てない。女主人が湯の中に手を入れて暖めたらどうだと言ってくれた。助かった。
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 ラスベガスに近い。ある町のスーパーのパーキング場に入ると、50歳ぐらいの婦人から「英語、わかりますか?」と声を掛けられた。その婦人の子供が日本へ行っているので、私に興味を持ったらしく、家へ招かれた。
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 家には男の子が3人、女の子が4人いた。まことににぎやかな家だ。他にまだ3人の男の子がいるという。上の男の子たちは忙しくて、私の話し相手はもっぱら11歳の双子の女の子だった。昼になって子供たち7人の食事が始まった。すべてセルフサービスだ。居間に小さなテーブルを並べ、それぞれが皿とカップを持って台所に並んで盛り付けてもらう。まるで学校給食だ。
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1976/10/31    双子の女の子
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 日曜日、父親と子供たちは教会へ出かけた。私も一緒にどうだと誘われたが、着ていくような服がなかったので辞退する。
 ご主人はコンピュータのプログラムの仕事をしていて、週給は350ドル。趣味はハンティングで、昨夜は鹿肉をごちそうになった。夫人はよくこえた人で日本でいう肝っ玉母ちゃんである。子供の世話で、休む暇もないようだ。10人の子供を育てるのは大変でしょうと聞いたら、「それが私の仕事ですよ」と返ってきた。そんなお母さんが更にもう一人の子供、私を拾ってくれた。
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 長男と次男はブラジルで教会の仕事をしているといる。21歳と20歳だ。3男は19歳で、やはり北海道の岩見沢で教会の仕事をしている。4男は大学1年生で電気を専攻していっる。5男は高校生でフットボールのメンバーだ。6番目は高校生の長女。一番おませでニキビで悩んでいた。7番目が中学生で野球のうまい6男だ。たくさんのトロフィーを持っている。夕方には新聞少年に変身する。早く高校生になって、フットボールをやるのが夢だ。彼が私にベッドを貸してくれて、彼は居間の長椅子に寝ていた。
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 8.9番目が双子の女の子で、11歳だ。とてもよく似ている。おとなしくて優しい子たちだ。10番目の末娘は、双子の姉たちより背が高く口が達者で、10歳だが、よく私の世話をしてくれた。
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1976/10/31      未亡人
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 すでにご主人のビルは会社へ行き、7人の子供たちがが学校へ行くために忙しく動き回っている。洗濯も自分でやるらしい、洗濯機に衣類をほおりこんでスイッチを入れている。朝食もそれぞれで準備して、忙しく食べている。家族全員の写真を撮ろうと思ったら、大学生の息子が時間だと言って出て行った。しかし、ほどなく戻ってきて写真を撮ってくれという。私の気持ちを察してくれたようだ。いい子供たちだ。
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 160キロ先のラスベガスで、ご主人のビルの会社をたずねて、彼の下宿先に泊まることになった。家主は未亡人のおばあちゃんで、いい話相手ができたとばかりに大歓迎だ。たっぷりと話し相手をさせられ、ラスベガスの町を見て回る時間が無くなってしまった。

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オートバイの旅日誌(22)USA [3-USA]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(22)USA-1976/11/02


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1976/11/02   塩を吹いている
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 ビルの下宿を出発してデスバレーへ向かう。スプリングマウンテンの峠を越えると、道はどんどん下る。地の底へ向かっているようだ。車は一台も通らない。気温がだんだん上がってくる。バイクで走っているというより谷底へ吸い込まれていくように感じる。
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 谷底に降り立つと道は悪くなった。まわりの山々から落ちてくる土砂がすごくて、道路を半分埋めてしまっている。ある場所では熱と風の浸食のためか、道路の基礎がむき出しになり、路体はこなごなになっていた。
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 谷の底には小さな池があった。池のまわりは塩を吹いている。カメラを通してみる景色は別に他の土地と変わらないが、海面と同じレベルの窪地にいると思うと楽しくなる。まわりの山々の高い壁面を見ていると、アメリカ大陸のすべての土砂がこの谷へ流れ込んで来るような錯覚さえ起こす。
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1976/11/03    オーバーヒート
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 ストアーパイプウェルズの町は、昔は銅山の町で、そのとき使用された機具などが展示されていた。蒸気で走るスティームトラックがあった。運転席の横に大きなボイラーがついている。
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 その町からロネパインまでは登りが続いた。峠まで一気に約1000メートルを登ることになる。だんだんオーバーヒート気味になり、エンジンのパワーが落ちてくる。スロットルグリップがどんどん回っていく。シフトダウンしてもスピードは落ちる一方だ。
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 なんとか停車できるところを見つけ、バイクの点検だ。オイルはいっぱい。ミッションオイルも適量だ。オイルポンプもOK.どうやらオイルの質が原因らしい。リットル80セントの安いアウトボードオイルだ。ピストンに穴があいては困るので、たびたび休んで峠を登り切った。
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 ビッグパインに着いた私は、キャンプために山の奥のレストエリアへ向かった。ビッグパイン(大きな松の木)は、地図では森林地帯になっていたが、樹林なんかほとんどない。やがて谷川の脇に巨大な松の木を発見した。なぜ、こんな大きな松の木があるのに、まわりは石がむき出しの禿山だ。やはり、伐採が激しく行われて、そのまま放置したために表土が流れてしまったのだ。
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1976/11/04    明日の峠のために
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 ビッショプの標高は4147フィート。今日は3000フィートを何度も登ったり下ったりしなくてはならない。
 まず、セウィン・サミット峠(7000フィート)に挑戦する。ある所では3速まで落として登り切った。そしてどんどん下り、デッドマンサミット峠(8041フィート)、それからコンウェイサミット峠(8138フィート)、またどんどん下がり、ブリッジボード(6465フィート)まで下る。そして最後にルート89号線に入ってモニター峠(8314フィート)に挑んだ時から、バイクはオーバーヒート気味になり、ギヤーを落としてもパワーはどんどん落ちていく。
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 坂の途中で停車すると焦げ臭い。スロットルグリップを話すと、エンジンが止まりそうだ。オイルの量を増やし、キャブのニードルポジションを変更して、ガソリンの量を増やした。なんとか頂上まで登ることができた。そして、マークリー村(5526フィート)まで転げ落ちるように下った。
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 湖畔でキャンプし、明日の峠のためにスパークプラグの変更、ポイントの点検と調整をする。


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1976/11/05   3世の追川青年
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 湖畔でキャンプしていたので今朝は暖かかった。いつもの防寒服として着ている雨合羽を着ないで出発しようとしたぐらいだ。しかし、ハイウェイに出てびっくり。手足の感覚がなくなるほど寒い。出発そうそう7382フィートの峠を超え、レイクタオーの町に着く。カフェーに入ると寒かっただろうとコーヒーを何杯も注いでくれる。
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 レイクタオーは、カナダの湖のように美しかった。針葉樹林に囲まれたブルーの湖だ。このあたりの道路は、日本の山道と少しも変わらない。ヘアーピンカーブの後、すぐに急勾配の上り坂になる。ギアーを一速にして登る。森林の中に入っていくと非常に暗くなった。
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 7000フィートから2411フィートのグラスバレーまで、ブレーキをきしませての下り坂だ。太平洋まで下り坂が続く。
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 ハイウェイは森の中を下っていき、グラスバレーに近づくにつれ、針葉樹林から広葉樹林へ変わっていった。さらに下ると、森はなくなり、畑と農場になった。マリスビルからは平坦なハイウェイになった。
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 ここでアラスカの出入国管理事務所で働いていた3世の追川青年の家を訪ねることにした。2世の両親と非常に元気な80歳のなるおばあちゃんがいた。妹と弟がいて、姉はサンディエゴ、弟はサンフランシスコの大学へ行っているらしい。
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 畑を見せてもらった。大きなコンバイン3台が稲を刈っていた。ここでは田植えなどの作業はない。ヘリコプターで種子をばらまく方式だ。父親は、日本ではなぜ田植えなんかするんだと不思議がっていた。
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1976/11/06
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 おばあちゃんが作ってくれた大きなサンドイッチをザックに入れ、サンフランシスコへ向け出発。中央アメリカへの旅の準備として予防接種、ビザの取得など、たくさんの仕事がある。
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 ルート80号線を通ってサンフランシスコへ前進する。予想とは違って禿山が多いのに驚く。オークランドを過ぎ、サンホセに着いた。ガススタンドの事務所を借りて、おばあちゃんが作ってくてたチーズ、ハム、レタスがはいた豪華版サンドイッチをぱくついた。夢中で全部食べてしまった。
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 サンフランシスコから100キロ南のアプトスという町へ向かう。アラスカで会ったポールの姉さんを訪ねるためだ。
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 サミットパス(1808フィート)を登っている途中でオーバーヒートし、エンジンが止まってしまった。交通量の多い坂の途中だ。バイクを停める場所もない。エンジンが冷えてから、オイルの量を増やして一気に峠を越えた。やはり荷物が多すぎる。
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 ポールの姉のランダの家でしばらく滞在させてもらうことになった。ご主人は大学の教授だ。今は自分の研究期間で、大学へは行く必要がないということで家にいた。ランダは、9歳になる一人娘の母親だが、日本語が上手なので、ガイドの仕事をやっていた。

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