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オートバイの旅日誌(23)USA [3-USA]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(23)USA-1976/11/08


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1976/11/08   日本語の辞書
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 中米の旅行準備のため、シスコへ行く。フリーウエイには制限速度の表示はないが、大体100キロのスピードで走っているようだ。シスコに近づくと空気が濁ってきた。シスコ周辺の新しい住宅地は,丘の頂上まで定規で計ったようにきちんと並んでいる。あまり感心した眺めではない。
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 市内の中心部でメキシコ大使館を見つけた。駐車させたもののバイクから離れるのが非常に心配だった。エレベータに乗ろうとしたら、ほぼ満員だ。とてもザックやヘルメットを待ったままでは乗れないので、あきらめて見送る。ドアが閉まるときに中の連中は、グッバイーと手を振る。アメリカ人はこんな人懐っこさがある。
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 次の日も160キロ離れたシスコへ110キロ前後のスピードで飛ばす。パンクしたらどうなるか。ハイウェイにはスリップ防止のため、進行方向に細かい溝が入れてある。これがバイクには危険だ。タイヤが溝に沿って非常に激しく揺れる。
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 途中で道を間違え、大きな釣り橋をわたり、オークランドについてしまった。50セント払ってまたシスコへ戻る。
 パナマ大使館では、6ドルと引き換えにその場でスタンプを押してくれる。ニカラグアも3ドルでOKだった。
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 メディカルセンターでコレラの予防接種(6ドル)を受けた後。ケーブルカーが走っているマーケットストーリを走る。あの急な坂道に信号機があるのには驚いた。信号が青になってもなかなか発進できない。エンストだ。なんとか頂上まで行くと、今度は谷底へ落ちるような下り坂。ローギアで、ブレーキを握りしめながら下っていく。その坂道でも道路端には駐車している車でいっぱいだ。よく転げ落ちて行かないものだと感心する。前輪タイヤを歩道の縁石に押し当てている。
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 ハンバーガーの店で2.3人の若者たちと少し話をし、店を出ようとすると、老婦人が声をかけてきた。おじいさんは口が不自由で、それに手足も不自由だった。やっと聞き取った彼の話では、以前にバイクにはねられたて、そんな身体になったという。彼はバイクが憎いに違いない。しかし、彼は小言を言うのではなく、バイクは危険だから、注意してゆっくり走って安全な旅行をしてくれというのである。ずしんと胸にこたえた。
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 家に帰ると、ランダが、今日は外へ食事に行こうという。近くに住む学生も誘って、魚介類専門のレストランへ行った。
 彼女は日本語のガイドをしているくらいだから、日本語がうまい。今夜の会話で心に残っているのは、辞書のことだ。英語の辞書には、語源が書いてあるが、日本語の辞書には現在の意味しか書かれていないので語源が分からない。彼女は日本語を勉強しているとき、その不便さを痛感したという。そして、日本人は自国の言葉の歴史にあまり興味を持っていないのではないか。というのである。
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 ランダが人生について話をするとき、たびたび学生のころ、ヨーロッパを自転車で旅行した話が出てくる。20年前のことだが、彼女はその時以来、私の人生は変わったという。
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 バイクを点検すると、後輪のベアリングにガタが出ていたので、取り外したところオイルシールがいかれていた。なかに雨水がはいり、グリスがすべて流れ出し錆びていた。


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1976/11/12    老夫婦の家
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 娘のアンナは学校へ、母親のランダも仕事へ出かけた。ご主人のカールに見送られて私も出発する。町で郵便局へ寄り、たまっていたフィルムと日誌を日本へ送ることにした。郵便の女性は親切で、日誌とフィルムを一緒に送ると、5ドルもかかるから別々に送りなさいと、もう一度計算してくれた。あまり変わらないので、今度はフィルムと手紙だけエアーメールにして、日誌は船便にしなさいと、また計算したところ、2ドルたらずで送ることができた。税関の申告カードも彼女が書いてくれた。(ありがとう。)
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 次はシスコで知り合った青年の家へ向かった。海岸に沿って南下する。パシフィック・グローブまで非常に美しい海岸が続いた。
 青年が住んでいる町に到着いたが、彼が帰ってくるまでには時間があったので、ミッションオイルの交換をする。
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 6時ごろになってスズキの550に乗るセルダン君が帰ってきた。2階建ての一軒家の一階部分が彼に住まいだ。小ぎれいに片付いている。とても男所帯とは思えない。
 この町は漁港だったので、魚料理のレストランが多い。彼は一軒だけイカ料理で有名な店があると言って、そこへ連れて行ってくれた。その店は非常に有名らしく、私たちが席に着くまでに約1時間、店の前で待たされた。イカをころもで揚げたものと、フライにしたナスがトマトソースの中に浮かべてある。しかし、トマトソースが多すぎて、どこにイカがいるのか、なかなか見つからない。サラダとコーヒーがついて5ドルだった。
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 翌朝、窓の外は素晴らしい快晴だ。ところが、それから10分ほどして外を見ると、どんよりと雲が覆っていた。セルダンがいうには、これがシスコ独特の気候で、寒流と暖流がぶつかりあって、激しく変化するのだという。
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 今日は、レイクタオーで会ったあった老夫婦の家へ行き、天気がよければヨセミテ公園へ行くことにした。セルダンはハイウェイまで送ってくれた。途中、美しい海岸へ連れて行ってくれた。日本の海岸の景観とは違う。松の木は多いが、気候が違うため、カリフォルニア沿岸独特の植物がある。砂地はアイスグラスという肉の厚い草類が覆っていた。また、メタセコイア、ユーカリ、そして変わった杉類が多くみられる。
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 モントレーから少し戻って、カリフォルニア州道156号線、152号線を北上する。モデストの町の周辺は果樹園だらけだった。訪問したウェーバー夫人は、春になると桃などの花が咲き、とても美しいという。ご主人は湖へ釣りに行き留守だった。この日の夜は、教会のディナーパーティがあったので連れていかれた。
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1976/11/14    暖炉
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 ウェーバー夫人は料理が上手だ。3食とも時間をかけて作ってくれた。涙が出るほど嬉しかった。
 この家での私の仕事が見つかった。暖炉に火が絶えないように薪を放り込むことだ。あまりにも熱心にやったものだから、部屋の温度がどんどん上がり、私は額から汗をかき、ご主人も温度計を見て、これは厚いと夫人ともどもセーターを脱ぐ始末。(ごめんなさい。私には暖炉の火の知識などなかった。)

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オートバイの旅日誌(24)USA [3-USA]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(24)USA-1976/11/16


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1976/11/16   サンドイッチ
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 外はすごい霧だ。ウェーバー氏と夫人に固い握手をしてお礼を言う。夫人は強く抱きしめてくれた。(彼らには子供がいなかったので、その愛情をもらってしまったようだった。)
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 カリフォルニア州道1号線を南下。ウミネコの飛び交う海岸で、夫人が作ってくれたサンドイッチをほおばる。夜は、その海岸の無料キャンプ場で寝ることにする。そこへ12人の子供や青年が2台の車でやってきた。そして芝生の上に寝袋を並べた。すごく騒々しくなったが、二人の子供からタバコをもらったりして、親しくなった。
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1976/11/17    ユーカリ
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 この沿岸地帯は暖かい。ちょっと前までのあの寒さがウソのようだ。ズボン下をはいたままだったので、昼過ぎには、汗をかくほどになった。
 192号線は日本の田舎道以上にくねくねしていて、非常に楽しい。大きなユーカリの木の並木が続いた。特に小葉のユーカリは美しい。今日は谷川でキャンプ。標高が高い割には暖かく、寝袋なしで寝ることができた。
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1976/11/18   小松君
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 ロスアンゼルスへ向かう。市内のフリーウェイに入ってしまうと、バイクを停めて地図を見ることもできないので、あらかじめコースを決めて、大体の地名は暗記した。
 ロスに近づくと車線が増えた。往復8車線を車がいっぱい走っている。今までの交通量からは想像もできないほどだ。
 USヤマハへ行くと、バイクの点検をしてくれるという。ありがたい。明日から点検してもらうことにして、友人の家へ行ってみた。下町にあるアパートだ。
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 アパートの女家主は、私のすごい格好を見て驚いたのだろう。「コマツは今いないよ。お前をここに入れるわけにはいかない。」と怒鳴って、玄関のドアを閉めた。そしてロックした。あきらめて立ち去ろうとしたら、背後から小松君に声を掛けられた。女家主の言葉を伝えたが、彼は気にするなと私を部屋に案内してくれた。彼は夜間の大学で経済学を学び、昼は働いていた。彼の部屋はあまりきれいとは言えない。私の東京での下宿と同じくらいに汚い。(でも気になる。さらに汚れそうで・・・・)彼は3人の中国人の青年と共同生活をしていた。彼らは料理が得意で、いつも作ってくれるという。
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1976/11/19   AJウィトニー
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 USヤマハは、あす土曜日に工場マシンのレースがあるそうで、忙しく動いていた。その工場マシンの整備を見ていて一日が終わった。
 次の日は、モトクロスの練習試合へ連れて行ってくれた。民間のレーストラックで、山全体がモーターサイクルのレジャーランドになっていた。山の斜面は蜘蛛の巣のように道ができていて、自由にバイクで走り回ることができる。
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 ここで、AJウィトニーという少年とあった。彼はヤマハYZ80に乗るUSヤマハの契約ライダーだ。いい腕をしており、オープンレースでは、彼のYZ80は400のレーサーを軽く追い抜いて行った。スタートではパワーに負けて最下位だが、1周ごとに順位を上げて、結局一位となる。彼の弟も速く、1位2位を彼らが独占した。


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1976/11/21   工場マシン
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 日曜日、今日はレースの本番。レースの展開は昨日と同じだ。レースは見るのも楽しいが、自分も参加すればもっと楽しいだろうな。昼頃から太陽の照り付けが厳しくなり、私の頭がオーバーヒート。頭が痛い。ヤマハの工場マシンは1.2位を独占した。
 毎週行われるレースに準備に忙しくて、なかなか私のバイクの整備は進まない。
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1976/11/24   整備
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 やっと整備が始まった。前後のタイヤの交換。折れ曲がったフロントバンパーの交換。リアーショックも大きなもの交換。
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1976/11/26   砂嵐
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 フリーウエイ10号線を真っすぐ東へ向かった。河原でキャンプ。ひどい暑さだ。日陰を探してテントを張る。夜になってから砂嵐だ。テントの支柱を支えて寝た。
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1976/11/27   悪い手紙
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 砂嵐のために、暑さもどこかへ飛ばされたらしく、今朝は少し肌寒い。
 アリゾナ州のフェニックスに戻り、先輩の家に行ってみる。日本からたくさんの手紙と荷物が届いていた。家からの手紙の他に嬉しい手紙もあった。ギリシャのシェル石油がガソリンを提供したいというのだ。悪い手紙もあった。実家から送ってもらった広角レンズがシスコの税関で引っかかっていた。時間がないので送り返してもらう。
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1976/11/29   現金輸送車
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 先輩名義で送った4000ドルを受け取る。これからの国での両替を考えて、少額の紙幣にした。後で、その数の多さに驚いた。私のバイクは現金輸送車になった感じだ。紙幣は1ドル5ドル10ドルをそれぞれ50枚。20ドルが95枚。トラベラーズチェックが10ドル100枚。20ドル50枚。50ドル12枚。これだけのものを身体に巻き付けるのは困難だ。
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1976/11/30   保険会社
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 アラスカでフェリーに乗った時にバイクが倒れて、風防が壊れたが、その損害賠償金が届いていた。私が送った見積書は67ドル。実際にかかった金額は60ドルだが、送られてきた金額は33ドル。保険会社の支払い明細書が同封されていた。「このアクシデントは、非常に疑問がある。ゆえに見積金額の半額を支払う。」とあった。保険会社はどこの国も同じだ。
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 実家からラジオが送られてきたので早速テストしてみたが、日本語放送は聞こえなかった。
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1976/12/01   メインジェット
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 バイクのシートに霜が降りていた。アリゾナにも冬がやってきたようだ。
 ユッカ公園でキャンプして、キャブレターのメインジェットを120番に交換する。しかし、日本から持ってきたものには、違う番号のものが混じっていた。左右のキャブに違うサイズのものを使うわけにもいかない。日本のヤマハの営業所を恨み、それをちゃんとチェックしなかった自分に腹がたった。
 そういうときは、むしゃくしゃして止めていたタバコが吸いたくなる。何か食パン以外のものが食べたい。

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