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オートバイの旅日誌(24)USA [3-USA]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(24)USA-1976/11/16


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1976/11/16   サンドイッチ
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 外はすごい霧だ。ウェーバー氏と夫人に固い握手をしてお礼を言う。夫人は強く抱きしめてくれた。(彼らには子供がいなかったので、その愛情をもらってしまったようだった。)
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 カリフォルニア州道1号線を南下。ウミネコの飛び交う海岸で、夫人が作ってくれたサンドイッチをほおばる。夜は、その海岸の無料キャンプ場で寝ることにする。そこへ12人の子供や青年が2台の車でやってきた。そして芝生の上に寝袋を並べた。すごく騒々しくなったが、二人の子供からタバコをもらったりして、親しくなった。
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1976/11/17    ユーカリ
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 この沿岸地帯は暖かい。ちょっと前までのあの寒さがウソのようだ。ズボン下をはいたままだったので、昼過ぎには、汗をかくほどになった。
 192号線は日本の田舎道以上にくねくねしていて、非常に楽しい。大きなユーカリの木の並木が続いた。特に小葉のユーカリは美しい。今日は谷川でキャンプ。標高が高い割には暖かく、寝袋なしで寝ることができた。
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1976/11/18   小松君
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 ロスアンゼルスへ向かう。市内のフリーウェイに入ってしまうと、バイクを停めて地図を見ることもできないので、あらかじめコースを決めて、大体の地名は暗記した。
 ロスに近づくと車線が増えた。往復8車線を車がいっぱい走っている。今までの交通量からは想像もできないほどだ。
 USヤマハへ行くと、バイクの点検をしてくれるという。ありがたい。明日から点検してもらうことにして、友人の家へ行ってみた。下町にあるアパートだ。
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 アパートの女家主は、私のすごい格好を見て驚いたのだろう。「コマツは今いないよ。お前をここに入れるわけにはいかない。」と怒鳴って、玄関のドアを閉めた。そしてロックした。あきらめて立ち去ろうとしたら、背後から小松君に声を掛けられた。女家主の言葉を伝えたが、彼は気にするなと私を部屋に案内してくれた。彼は夜間の大学で経済学を学び、昼は働いていた。彼の部屋はあまりきれいとは言えない。私の東京での下宿と同じくらいに汚い。(でも気になる。さらに汚れそうで・・・・)彼は3人の中国人の青年と共同生活をしていた。彼らは料理が得意で、いつも作ってくれるという。
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1976/11/19   AJウィトニー
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 USヤマハは、あす土曜日に工場マシンのレースがあるそうで、忙しく動いていた。その工場マシンの整備を見ていて一日が終わった。
 次の日は、モトクロスの練習試合へ連れて行ってくれた。民間のレーストラックで、山全体がモーターサイクルのレジャーランドになっていた。山の斜面は蜘蛛の巣のように道ができていて、自由にバイクで走り回ることができる。
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 ここで、AJウィトニーという少年とあった。彼はヤマハYZ80に乗るUSヤマハの契約ライダーだ。いい腕をしており、オープンレースでは、彼のYZ80は400のレーサーを軽く追い抜いて行った。スタートではパワーに負けて最下位だが、1周ごとに順位を上げて、結局一位となる。彼の弟も速く、1位2位を彼らが独占した。


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1976/11/21   工場マシン
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 日曜日、今日はレースの本番。レースの展開は昨日と同じだ。レースは見るのも楽しいが、自分も参加すればもっと楽しいだろうな。昼頃から太陽の照り付けが厳しくなり、私の頭がオーバーヒート。頭が痛い。ヤマハの工場マシンは1.2位を独占した。
 毎週行われるレースに準備に忙しくて、なかなか私のバイクの整備は進まない。
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1976/11/24   整備
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 やっと整備が始まった。前後のタイヤの交換。折れ曲がったフロントバンパーの交換。リアーショックも大きなもの交換。
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1976/11/26   砂嵐
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 フリーウエイ10号線を真っすぐ東へ向かった。河原でキャンプ。ひどい暑さだ。日陰を探してテントを張る。夜になってから砂嵐だ。テントの支柱を支えて寝た。
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1976/11/27   悪い手紙
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 砂嵐のために、暑さもどこかへ飛ばされたらしく、今朝は少し肌寒い。
 アリゾナ州のフェニックスに戻り、先輩の家に行ってみる。日本からたくさんの手紙と荷物が届いていた。家からの手紙の他に嬉しい手紙もあった。ギリシャのシェル石油がガソリンを提供したいというのだ。悪い手紙もあった。実家から送ってもらった広角レンズがシスコの税関で引っかかっていた。時間がないので送り返してもらう。
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1976/11/29   現金輸送車
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 先輩名義で送った4000ドルを受け取る。これからの国での両替を考えて、少額の紙幣にした。後で、その数の多さに驚いた。私のバイクは現金輸送車になった感じだ。紙幣は1ドル5ドル10ドルをそれぞれ50枚。20ドルが95枚。トラベラーズチェックが10ドル100枚。20ドル50枚。50ドル12枚。これだけのものを身体に巻き付けるのは困難だ。
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1976/11/30   保険会社
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 アラスカでフェリーに乗った時にバイクが倒れて、風防が壊れたが、その損害賠償金が届いていた。私が送った見積書は67ドル。実際にかかった金額は60ドルだが、送られてきた金額は33ドル。保険会社の支払い明細書が同封されていた。「このアクシデントは、非常に疑問がある。ゆえに見積金額の半額を支払う。」とあった。保険会社はどこの国も同じだ。
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 実家からラジオが送られてきたので早速テストしてみたが、日本語放送は聞こえなかった。
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1976/12/01   メインジェット
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 バイクのシートに霜が降りていた。アリゾナにも冬がやってきたようだ。
 ユッカ公園でキャンプして、キャブレターのメインジェットを120番に交換する。しかし、日本から持ってきたものには、違う番号のものが混じっていた。左右のキャブに違うサイズのものを使うわけにもいかない。日本のヤマハの営業所を恨み、それをちゃんとチェックしなかった自分に腹がたった。
 そういうときは、むしゃくしゃして止めていたタバコが吸いたくなる。何か食パン以外のものが食べたい。

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