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オートバイの旅(54)Nepal [7-アジア]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(54)Nepal-1979/01/26


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1979/01/26         キンカン
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 ネパールの首都カトマンズへの道はきびしい。バイクは息もたえだえに登っていく。すでにオーバーヒートしていたが、回転を下げないようにして進む。
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 カトマンズの町は、レンガ造りの狭い道路が入り組んだ町並みで、私が想像していた木造の静かな町の姿ではなかった。滞在したホテルは、日本の青年たちがよく利用するところで、日本語の看板まであった。カトマンズの家は寒さを考えてか、天井がやたらに低く、大男の私は、たえず頭を下げていなくてはならなかった。
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 ネパール第2の町ポカラは、雪を被った山塊が、すぐそばまで接近した素敵なところだった。郊外の農家の庭先でキャンプして一日中、その山を眺めていた。
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 町から離れたところに住む人たちは、医療に困っていた。私がある村でキャンプしたとき、村の子供の傷口に赤チンを塗ってやると、アフリカで薬をあげた時と同じで、大人までが薬をくれとやってきた。子供は身体に赤い液体を塗ってもらうのが嬉しいらしく、何やかやと理屈をつけて塗ってくれという。
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 首の曲がらないお爺さんには、キンカンを塗ってマッサージを教えてやった。目がチクチクするというお婆さんには、目薬を差してやり,絶対に手でこするなと注意を与えた。一番多いのは皮膚病だが、これだけは手が出なかった。子供が頭をつき出して見せるが、感染が怖くて、オロナインを与えて、自分で塗るように指示をした。
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 次の日も患者の群れだ。下痢をしている赤ちゃんには薬を与えず、腹を冷やすなと母親に注意する。腹がパンパンに張って仕方がないという娘に、子供がはいっているのではないかと言うと、娘は顔を赤くして、皆が大笑いした。どうやら妊娠ではないようなので、腹薬をあげた。
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 昨日、薬をあげた老人が嬉しかったのか、貧しい食料の中から温めたミルクを持ってきてくれた。他の人たちもパンやティーを持ってきた。
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 1週間ほどネパールに滞在して、インドへ戻った。外国旅行者の入国には、時間がかかるが別に問題もなく出入りができる。しかし、インドやネパールに住む人たちは、インドの税関役人にひどくいじめられていた。布一枚でさえ没収されていた。没収を免れるのは、ヒンズー教の神様の絵ぐらいだ。


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1979/02/05         日本人
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 ネパールからカルカッタに到着。キャンプできる場所もないので、市内の安ホテルに入る。5人ほど日本の青年たちがいた。その中に5歳ぐらいの男の子がいて、私を見つけると、すぐに飛んできて注意を与えてくれた。「顔が真っ黒だよ。早く洗いなよ。」「ここは泥棒が多いから、荷物は全部、部屋へ持っていった方がよいよ。」とか、私をタバコ屋へ案内するときも「この路地はウンコがいっぱいだから、真中を歩いた方がよいよ。」という。通称ウンコ通りでは毎朝、家のない人が、せっせと生産するのだ。
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 私はこの3年間、十分に日本語を話す機会がなかったので、日本人を見つけては懸命に話をした。しかし、彼らのほとんどは、毎日、日本人と会うような旅行をしているので、私ほど日本語に飢えていなかった。中には日本人と会うのを避けている若者もいた。
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 しかし、私は良い日本人の友人を得た。歳も同じぐらいで話が合った。その青年は映画シナリオの仕事をしており、私も映画がすきだったので、一日中しゃべっていた。私たちの話は映画、インド、人生、宗教、日本・・・と続いた。彼は今回の自分の旅をテーマにした映画を作りたいといっていた。
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 この3日間の滞在中に、これからバイクでアフリカへ行くという青年に会い、バイク旅行のノウハウやマナーについて話し合った。
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 出発の日、私がバイクに荷物を積むのを見て、皆はそのものすごい量にあきれ果てた。ホテルのヨーロッパの青年もあきれて、カメラを取りに戻り、写真を撮られてしまた。
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 私はインドへ来てよかったと思う。いろいろな青年に会い、いろいろなことを考えさせられた。これからの旅、これからの人生を考えた。11時過ぎにホテルを離れ、マドラスへ向かう。
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 どこかで象に会いたいものだと思ったら、小さな茶店の前にインド象が駐車(?)していた。すぐさまバイクを停め写真を撮らさせてもらう。象は人なつこく、長い鼻を伸ばしては何かをくれとねだる。パンを一切れやっても、少ないといってすぐに鼻を伸ばす。このゾウはインド女性と同じように、おでこを赤く塗っていた。既婚女性か。
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 マドラスで10日間滞在して、2月28日客船に乗ってマレイシアのペナン島へ向かった。1週間の船旅だ。車で旅をしているイギリスの若いカップルを親しくなり、退屈はしなかった。


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オートバイの旅(55)Malaysia [7-アジア]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(55)Malaysia-1979/03/06


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1979/03/06   ゲリラの村 
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 マレイシアのペナン島に到着。人であふれていたインドと違い、静かで、小ぎれいな町を歩くと安らぎを感じる。
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 マレーシアでの最初の食事はラーメンだ。これは非常にうまかった。インドと比べると、ペナン島は何もかもよかった。気候も快適で、たえずそよ風が吹き、日陰はしのぎやすい。
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 市場には日本の食品がたくさんあった。カッパえびせん、あんぱん、味の素、おこし・・・懐かしい。でも、物価がインドの2.3倍も高いのには閉口した。一番安いユースホステルに3日滞在して、島の裏側にある海岸で泳ぐ。水そのものはあまりきれいではないが、パンツ一枚になって思い切り泳いだ。
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 本土へ渡り、北上してタイへ向かった。ゴムの木のプランテーションが続き、海岸沿いの家々が南国的な高床式の家で、とても素敵だ。1日目のキャンプは、そのゴムの木の中だ。近所の食堂の人が家に来て、寝ろと言ってくれたが、ひとりになりたかったので断り、テントの中で寝た。
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 2日目にタイ国境に到着。役人はマレーシアとは違い、ワイロを欲しがっているような感じの悪さがあった。
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 タイの住居や食事は、マレイシアとほぼ同じだったが、ラーメンの量が少ない。アイスコーヒーの氷が細かく砕いたものだった。タイで最も気に入ったものは、そのアイスコーヒーだった。その後、無人の海岸で泳いだりして、北上した。
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 タイの南部には、反政府ゲリラがおり、民家を襲ったり、バスや車を狙うと聞いていたので、山岳地帯に入るときは怖かった。
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 タイで困るのは、食堂で何かを注文すると、必ず飲み物は?と聞いてくる。ラーメンやチャ―ハンを食べながらコーラやジュースは飲めないので、水を頼むのだが、その水が有料なのだ。あとで分かったが、ほとんどの店が本来は飲み物屋で、その店の中に構えているラーメン屋などは別経営の出店なのだ。つまり、水代は席料に当たるらしい。そんなことは知らないから、最初の頃は、たびたび水のことで喧嘩した。
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 北上するにつれて暑さが厳しくなる。バイクで走っていても風が熱い。頭がボーとして非常に疲れるようになった。
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 幹線道路から離れた海岸でキャンプしようとして、一軒の家を見つけて入ってみると、どうも様子がおかしい。家にいた連中は、不気味で、なんとなく身の危険を感じたので、すぐにそこから逃げ出した。再び幹線に戻り、農家の庭先でキャンプさせてもらった。そこの人たちに先ほどの村のことを話したところ、キャンプしていたら殺されていたかもしれないという。ゲリラの村のようだ。
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 その後もたびたび民家でキャンプさせてもらったが、そのたびに、家の人から外で寝るのは危険だと言われ、家の中で寝かされた。
またある時、倉庫で寝かせてもらったら、外から鍵を掛けてしまった。それほど郊外の人たちは、盗賊やゲリラの襲撃を恐れているようだった。
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 また、寺でキャンプしたときも、住職からテントを張って寝ても構わないが、何かあっても責任は持てないよと脅された。
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 タイの寺はきらびやかで、どこの地方を走っても、あちこちに建っており、タイの風景の大きな要素になっている。そんなお寺でキャンプしたとき、子供が遊びにやってきたので、ビスケットをあげた。すると子供は両手をあわせ、合掌してから食べた。改めてここは仏教の国であることを感じた。


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1979/03/16   水浴び
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 ますます気温が上がり、体調が悪くなり、疲労が激しくなった。食堂に入っても、1杯のアイスコーヒーを飲むのも苦しくなった。テーブルの上に倒れ込むようにじっとしているときがあった。
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 どうしてこうもへたばるのかと思った。原因は暑さだけではない。革ジャンパーは安全のためにずっと着ていたが、ここしばらくの間は暑いので、チャックを全部はずして、体に風を直接受けて走っていた。これがよくなかったらしい。それ以降はチャックを上まできちんと挙げてバイクを走らせたところ、疲れが非常に軽くなった。
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 毎日、泳ぎたくて漁村を訪ねながら進んだ。バンコクに近い漁村の一家に大歓迎された。子供がすぐになついてきた。ひと泳ぎすると、子供がヤシの木のてっぺんまで登り、ヤシの実を落としてくれる。私がナタで穴を開けようとするがなかなかうまくいかない。すると、女子がナタを取り上げて、手際よく穴を開けてくれた。メキシコ以来の懐かしい味だ。旨い。果汁の後は、半分に割って、中の白い油脂を食べる。若い実だから、その油脂はトコロテンのようにつるつるしておいしい。そんなふうにして私は1週間も滞在してしまった。
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 夕方、空軍に勤めている若主人と縁日へ出かける。境内に入ると、流行歌が鳴り響き、あらゆる出店が並んでいる。お化け屋敷やヘビと少女の見世物小屋もある。鉄砲でタバコを落とす射的屋もある。飯屋数軒あるだけの村だから、縁日は大きな娯楽であり、人々の接触の場であるようだった。遠くから自転車やバイクでやてくる人も多く、寺の前には大きな預かりところができていた。
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 若主人は、私をまず仏像の前に連れていき、線香とロウソク、さらに金紙を持たせた。その金紙は仏像に張り付けるものだ。
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 出店の中を行く子供や女性は、ベビーパウダーで首も顔も真っ白にしている。大人の女性のこの顔は見られたものでない。お化けだ。私はかき氷を買てもらい、境内の中の映画を見て帰った。
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 毎日、庭で水浴び最低3回はするという。こちらの生活にも慣れると、なかなか良いものだ。みんなよくゴロゴロとよく寝ているけど連中はいつ仕事をするんだろうと、ふと思った。
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 元気になったので、その漁港を離れたが、、100キロ先の漁港でも4日ほど厄介になり、ゴロゴロと過ごした。ここではテレビで<子連れ狼>を見た。橋幸夫のテーマソングがそのまま流れていた。
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1979/03/22
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 町へ映画を見に行った。映画館では上映前にタイ国王の写真が映し出され、国歌が流れる。全員起立だ。その後は全員が食ったり飲んだりしながら映画を楽しむ。昔の日本のようだった。
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 タイ映画の会話は全く分からないが、恋愛もので筋は簡単だから、十分に楽しめる。タイの人気女優は、小柳ルミ子のような顔をしていていた。終わって、いつもの食堂へ行く。毎回同じものを注文するので、そこの娘に日本語で焼き飯というとOKだ。今日は特別の日だから、ビールと料理2皿を注文。日本に近くなったことが、こんな贅沢をさせるのだろうか。250円なり。


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オートバイの旅(56)Thiland [7-アジア]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(56)Thiland-1979/04/10


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1979/04/10        精神病院
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 バンコクで簡単なバイクの整備をして、チェンマイへ向かった。北上するにつれ、バナナやヤシの木が少なくなる。昼を過ぎても陽射しがきつい。北へ行くほど高地になるが、気温が上がる。途中、民家の床の下でキャンプさせてもらい、昼寝をする。キャンプといってもテントを張らずに床の下で横になるだけだ。それほど暑くて何もする気がしない。時どき家の人がスイカやマンゴーを出してくれた。青いマンゴーをスライスして砂糖をつけて食べるのはうまい。
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 チェンマイに到着。市の中心部は堀に囲まれていた。地図で見ているときは倉敷市のようなところだろうと思っていたが、それほど情緒のあるところではなかった。それでも2輪車や3輪車がけたたましく走り回っているバンコクよりは良かった。
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 3日ほど食べて寝るだけの生活をし、更に北の町へ向かう。マエホンソンが私が考えていた北限の町だった。さらに山奥へ入るルートもあるが、身の危険を感じるので中止した。マエホンソンは寺もある町だった。この町の民家でキャンプさせてもらう。
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 ちょうど寺の縁日があったので、民家の娘2人と境内の映画を見に行った。境内は若者たちでいっぱいだ。娘たちも英語があまりわからないのに、いろいろと質問してくる。「何歳?」せっかく娘たちの仲間にしてもらったのに、29歳なんて答えたら白けてしまう。19歳とか、20歳とか聞くので、笑ってそうだとうなずいた。
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 次の日も滞在した。娘たちが私の衣類を洗ってくれた。お礼にコーラを買ってあげたら、後で母親がアイスコーヒーをご馳走してくれた。そんなふうに十分な会話ができないのに楽しく1日が過ぎた。
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 出発の朝、朝食に妹が姿を現さない。記念写真を撮ろうとしても出てこない。私がバイクにまたがった時、窓から半べそをかいた彼女が覗いているのが見えた。私のことを好きになってしまったのかな。?ヤマハのTシャツをプレゼントして、チェンマイへ引き返した。
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 中国暦の正月が近づいていた。そこらじゅうで、ガキどもが水の入ったバケツを持って待ち構えている。水をぶっかける祭りが始まったのだ。水を掛けられてはかなわないので、先にバケツを取り上げて、たっぷりかけてやった。
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 チェンマイの町は水浸しだった。なるべく人のいない通りを行き、安宿に逃げ込んだ。外へ出かけた旅行者たちは、上着やズボンから水滴を垂らしながら帰ってきた。悪い奴は氷水をぶっかけたりするが、そんな連中にも、水に花を浮かべている娘もいた。そんな水なら喜んでかけてもらいたい。水祭りは1週間も続いた。
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 3日間、ホテルの中庭でキャンプして、昼間は外へ出なかった。水をかけられるのが嫌だからだ。この水祭りにもルールがあって、暗くなると中止だ。
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 タイの滞在期間も残り少なくなったので、バンコクへ引き返す。寒暖計は40度を示していた。手で触ると逆に青い水銀液が下がるほどだ。
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 民家でキャンプするたびに人々の親切を受けた。朝、出発するときにお弁当として、もち米のおにぎりと茹で卵を持たされることもあった。
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 チェンマイを出発して2日目、民家でキャンプさせてもらう。体がだるいので昼寝がしたかったのだが、近所の人が見物に来るので、相手をしなくてはならない。
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 夕方、テントを張り終えると、家の人が夕食を持ってきてくれた。私が食べるのをみんなが熱心に眺めている。まるで珍しい動物がエサを食べているのを見ているようだ。そこへ少年が英語で書かれた紙を持ってきた。「この辺は危険で、あなたが狙われそうだから、村長の家に行った方がよい。暗くなる前にそうしなさい。」とあった。
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 私も心配になって、村長の家に行く。村長は歓迎してくれた。水を浴びて部屋に戻ると、庭には2階の板の間を仰ぐようにして村人たちが座っている。その板の間には村長をはじめ年輩の人が座り、夕食を並べて待っていた。これから村長と私の談話を拝聴しようという感じだった。
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 みんなが見つめる中で、私は夕食をいただいた。学校の教師をしているという男がいろいろと私に尋ね、その私の返事を庭にいる人たちに伝える仕組みだ。別に面白い話をしたわけではないが、私の伝えるたびに人々は楽しそうに笑う。
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 その通訳をしてくれた男が、英語で話がしたいという女性を紹介してくれた。彼女はわずかな英語で私の名前とか歳をたずねた。村長のいる前だから、素直に29歳だと告げると、彼女は私も同じよと喜んだ。あとで分かったのだが、彼女は19と29を聞き間違えたらしい。彼女が村人にはわからない英語で「好きです」とささやいたときはドギマギした。


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 翌朝、彼女の叔父が日本人だというので、家に行ってみると、中村さんといい、戦争中に半身不随になって日本へ帰れず、そのままタイに残った人だった。ここで家庭を持っているが、言葉と手足が不自由で、生活が苦しいという。タイ人の奥さんは優しそうな人で、日本語を少し知っていた。彼は、私に日本へ帰りたいといった。しかし、難し問題がいろいろとあるようでした。
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 チェンマイであった日本の青年3人は、すでにバンコクに戻っていた。しかし、その中の一人が2日前から行方不明だという。その前日の夜、3人で酒を飲みに行き、どこかで分かれたままだという。冗談じゃない。すぐに警察に届けを出し、日本大使館へ回ってみたところ、警察から通報があったので、これから迎えに行くところだという。代わりに私が警察に行き、釈放書類を作ってもらい、町から40キロ離れた精神病院へ迎えに行った。
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 その青年は私を見て、非常に喜んだ。彼は夜中一人で町を歩いていて、少年グループと喧嘩になったという。非常に酔っていたし、警官とは言葉が通じないし、おまけにパスポートも持っていなかったので、精神病院送りになったのだ。動物園の檻のようなところで、変な男たちに囲まれていた。まさか私が来るとは思わなかったらしい。私は3人組とは、それほど親しくしていなかったのだ。
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 あれほど仲良く見えた3人組の関係もこんなものかもしれない。一人が行方不明になっていたのに、何もしていなかったのだ。一人はすでに飛行機でフィリピンへ行き、もう一人もマレーシアへ行く準備をしていて、明日はその青年をのこしたまま、出発してしまうつもりでいた。(情けない話だ。)
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1979/05/06
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 タイ南部の東海岸を南下する。そのままマレーシアへ入国した。キャンプした海岸の村には軍の監視塔があった。カンボジア(クメール)からの難民の上陸を見張っている。気分のよいところではないが、軍隊の目の前でキャンプすれば、安全だろうと考え、軍の許可をもらって、テントを張った。この村にはトイレがない。海岸の浜が天然水洗トイレだ。とても泳ぐ気分にならない。
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 半島を越えて、西部のマラッカへ向かう。町では、真っ赤な教会が印象的だった。海岸沿いの中国人街は活気があった。町を一周して、そのまま、シンガポールへ行く。
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 マレーシアから、海峡を渡ればシンガポールだ。入国は非常に簡単だった。緑に覆われたハイウェイが市内まで続く。市の中心地には、東南アジアの中心地と言われているだけに高層ビルが立ち並んでいる。
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 シンガポールでは、オーストラリアへ渡る船を待ったり、その準備をするため約3週間滞在することになった。
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1979/06/12        食事時間
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 ソ連の客船に乗って、ジャカルタ経由でパース近郊の港プリメントルへ向かう。このソ連船は正規の料金の半額220ドルだったが、オートバイの割引がなく、1000cc以下のバイクは甲板上で180ドルも取られた。
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 昔、黒海を航海していたというあまり大きくない船は、ジャカルタを離れると大きく揺れはじめ、食事時間になっても食堂は空っぽで、夜のパーティも中止になった。私もくたばった。寝ていると楽で、元気になったと思って食堂へ行くと気分が悪くなり、途中でベッドへ引き返す。バイクがひっくり返っているのではないか思うぐらいに揺れた。
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 1週間の航海の最後のパーティでは、私の趣味はドラム演奏なので、皆の前で叩いた。みんなから喝さいをもらった。女性たちが酒を持ってきてくれたので、最高の気分になった。


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