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オートバイの旅日誌(40)Niger [5-アフリカ]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(40)Niger-1977/12/18


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1977/12/18   ボンジュール
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 簡単な出入国手続きでニジェールに入ることができた。心配していたガソリンもちゃんとあった。ガススタンドには車の列がないので、やはりないのかと初めはがっかりしていたのだが・・・・・。なぜなら、ナイジェリアではガソリンは並んで入れてもらうものだった。
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 町の様子もナイジェリアとは違い静かだった。フランス系の国は人も良いし、親切に思われる。日常に挨拶もしっかりしていて、まことに気持ちがよい。税関事務所へ「ボンジュール」といって入ると、役人はちゃんとボンジュールと返事をする。(イギリス系の国ではだれも挨拶などしない。)
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 首都ニアメイで、最後のバイクの整備をする。前輪をトライアルタイヤに替える。ガタガタになったステアリングベアリングを交換した。それらの作業をガススタンドでやったのだが、昼飯も食べずにやっていると、スタンドの主人がフランスパン、オイルサーディン、コーラを持ってきて、励ましてくれるのである。
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1977/12/25   バケツ一杯の水
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 ニアメイからアガデスへ向かう。村ごとに予備のガソリン入れや水筒を探した。市場では空のオイル缶などが売買されている。蓋のある空き缶は高く、プラッスチックのオイル缶は水入れや灯油入れとして大切に使わられている。私も水入れとして使い始めたが、オイルの匂いが完全に抜けなくて閉口した。
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 砂漠地帯に入っていくにしたがって、気温が下がり、空気が乾燥し始めた。唇が荒れ始めた。タバコも乾燥していまい、葉が箱の底にたまって、紙筒だけになった。 パンと同じように、タバコをビニール袋に入れるようにした。朝は12度まで下がり、少し寒い。
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 アルジェリア入国を考えて、残りの金を計算した。3600ドルあった。
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 雨合羽を着て出発する。アスファルト舗装が終わり、砂道になる町でフランス人の青年にあった。彼はイタリア製のモトグッチの850で旅行していたが、その町の40キロ先で転倒して、手を擦りむいていた。彼はその時の怪我で、自分の限界を知り、サハラを超えるのを断念した。
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 彼の話の中にたびたび保険という言葉を聞いた。この転倒で壊れたバイクの修理代、そのためにまた船で送り返す費用、さらにこの日以降の旅費が、すべて保険で支払わられるという。そんな保険があるのだろうかと疑うが、そんな保険にまで入って、アフリカの旅をして、何を感じるのだろうか。それほど自信がなかったのだろうか。ただ、手を擦りむいただけじゃないか。
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 そこから、400キロ先の町アガデスへ向かう。1日に100キロずつ進み、4日目にアガデスに到着した。100キロごとに村があり、水と食料には困らなかった。村人も親切で、夜にはカッサバ、フーフーを出してくれた。朝の気温はさらに下がり、吐く息がテントの中でも白くなった。
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 2日目、次第に砂が深くなった。時速30キロ以下で、砂にハンドルを取られながら進んだ。まだ、ガソリンは満タンに近い。転んだらバイクは重たくてとても起こせそうにない。非常に砂が深くなり、走れなくなった。公園の砂場のようなところに入ってしまった。両足を出して、バイクを揺すって、勢いをつけて、エンジンをふかす。50センチばかり進む。それを繰り返して前進した。そのうちに砂が少なくなることを今までの経験から知っていたから、あきらめずに繰り返す。3度ばかり転倒した。一度は足がバイクの下敷きになった。トラックのワダチの中を行くのは、砂が柔らかいから走りにくい。そこで危険だが、道からそれないように横目で轍を見ながら、ブッシュの中を進んだ。
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 アバラクの村は、砂ばかりでお手上げだった。夜は村の警察の前でキャンプする。ポリスがシャワー替わりにとバケツ一杯の水をくれる。身体を洗って戻ってくると、テーブルにはナイジェリア製のビールが置いてあった。


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 次の日もわだちを避けてブッシュの中を進んだが、大きなトゲのある草が一面に生えていて、パンクが心配だった。突然、深い砂地に落ちて、バイクの下敷きになったときは、しばらく動けなかった。幸い、すぐにトラックが通りかかり、助けてもらった。運転手はワダチノ中を行けとアドバイスしてくれた。つまり、わだちからあまり離れてしまうと、何かあった場合でも発見してもらえないというのだ。
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 予定の100キロを走り、井戸のある村に到着。ヤシの木など1本もないオアシスだ。動物たちの水飲み場になっており、多くのラクダやロバが群がっていた。
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 食堂に入り、100フランのマジェ(食事)を注文する。油でいためた飯だけだった。塩と砂糖をかけて食べる。
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 その食堂にラクダに乗った男がやってきた。白い布で顔を覆い、腰には刀をつけていた。食事の後、その男は店からお茶の道具を借りて自分で湯を沸かして、濃いお茶を入れた。自分が一服した後、店にいた人たちにも勧め、最後は自分で食器を洗って店に返すという礼儀正しいものだった。(砂漠の武士だね。トゥアレグの男かな。)
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 4時過ぎ、食堂の前でテントを張っていると、村の青年が、ここは刺のある草が多いからと、スコップを持ってきて、砂の表面を削ってくれた。テントを張り終えたとき、私は青年の膝の傷に気が付いた。バイクで転倒したという。随分前の怪我らしいが、手当などしていないから、大きなカサブタが盛り上がり、真中は破れてウミが出ている。親切にしてもらったお返しに、ヨードチンキと化膿止めの薬を塗ってやった。すると、群がっていた子供たちが、我も我もと化膿した膝をつき出してきた。ヨードチンキを塗ってやりながら、「ちゃんと傷口を洗ってきれいにしていないと、お前の足は腐るぞ。」と脅しておいた。
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 彼らの怪我に対する無知には腹が立つ。ヨードチンキなど簡単には買えないのだろうし、そんな金もないのだろう。しかし、ただの切り傷で片輪になる。そんな社会に腹が立ったのかもしれない。
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 私自身、今回の旅の前に、バイクの練習で親指の怪我をした。関節が動かないぐらいにひどくなったが、無理をしてバイクに乗ったり、ペンを握ったりした。そして医者に「これは人間に指だぞ。右手だぞ。もっと大切にしろ」と怒鳴られた。その時の医者の気持ちがよく分かった。
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 子供たちが村じゅうに私のことを告げて回ったらしい。けが人や病人がぞろぞろとやってきた。ひとりの娘は火傷して、ただれた顔を持ってきた。右頬と耳の皮膚がめくれていた。どうしてよいかわからない。すでに少し化膿していた。「よく洗って、ほこりが付かないようになんとかしろ。」と怒鳴ってしまた。ほこりが付いて、ハエがたかってもそのままなのだ。特別に火傷の薬など待っていない。ヨードインキを塗り、オロナイン軟膏を分けてやった。それしかできなかったが、娘は大喜びで帰っていった。
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 夜、テントの前の食堂で飯を食べたが、サービスが非常に良かった。親父が下痢で困っているというので、薬をやったからだ。
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 翌朝、予備タンクからガソリンを移す。燃費が悪い。今までのようにリッターあたり20キロは不可能だ。10キロぐらいに落ちている。その代わりオイルの消費量は減った。
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 食堂のみんなと握手して別れる。砂道走行にも慣れて、それほど苦労せずにインガルのオアシスに到着。ヤシの木が生えているだけの村だ。土壁の食堂の前で、車で旅行しているイタリア人グループに出会った。旅の話に夢中になった。この日は警察のガレージの中で寝た。
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 翌朝、アガデスへ向かう。道がよくなり、非常に走りやすくなった。60キロのスピードで進む。アガデスの町には遠くから見えるイスラムの塔があり、町のシンボルのようだ。土壁の家が並んだ土色の町だ。
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 町の郊外の旅行者用のキャンプ場に着くと、多くのヨーロッパからの旅行者で満員だった。アフリカに来てまでそんな檻の中でキャンプしたくないし、料金が高いので、私は遊牧民のテントの横でキャンプした。
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 夕方、近くの遊牧民の男が、ここはトラックのルートだから、もっと私たちの方へ来いと言ってくれた。しばらくして、子供が夕食を持っち来てくれた。おじやのようなもので、ほとんど味はなかったが、温かいだけでうまいと思った。久しぶりに火の通ったものだった。私もお礼にキャンディーや時にはオイルサーディンの缶詰などをつけて返した。夕方、私がそこに戻ってくるのを、二人の子供が待っているようになったが、残念なことに私たちには共通の言葉がなく、ただ、微笑みを交わすだけだった。
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 アガデスでは、出国手続きの他に、アルジェリアのタマンラセットまでどうやって行くか計画を練った。約900キロ。リッター当たり20キロの燃費であればよいのだが、現状では10キロが精一杯だ。約100リットルのガソリンを運ばなくてはならない。とてもバイクに積んではいけない。1週間の間、北へ向かう旅行者の車やトラックを探したが見つからない。荷物とバイクを一緒に運ぶのであれば2万フラン(約2万円)でやるというトラックがあったが、私はサハラ砂漠をバイクで越えたかった。だから、ガソリンと荷物を運んでくれるだけでよかった。


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